〈要チャレ №10〉の要約発表&感想
〈要チャレ№10〉【質問】No.140 苦しんでいる人に「何もしない」ということの意味は?
たくさんのご参加、ありがとうございました(^O^)/
誰かが「職を失った」り「最愛の人を亡くした」場合、そこで「あの人は被害者だ」と知覚するなら、そこには「加害者」が存在することになります。間違った心は、常に、「被害者」と「加害者」を見ています。
真の共感は、あなたがイエスまたは聖霊につながっている正しい心のときに生じます。愛とひとつの聖なる瞬間では、あなたは自我を超越しているので、あなたがすることはすべて、愛を反映するものとなり、自我の罠に嵌ることはありえません。「何をする必要もない」とは、私たちが自分ひとりでは何もしないようにすべきだということです。
〈間違った心〉から〈正しい心〉に移行するなら、その状況において最も思いやりのある行動をとるように導かれ、何であれ、最も助けになることが、自然に起こります。また、その後どういう結果になるのかについても、何の期待や思い入れもありません。
マーヤ
真の共感は正しい心から生じるので、その瞬間は自我の罠に嵌ることはない。何をする必要もないとは、ひとりでは何もしないようにということで、消極性を勧めているのではない。間違った心の知覚は、相手は可哀想な被害者で親切で思いやりのある行為で助け気分を良くしてあげることだとなるが、これは心を見ておらず、真の助けではなく攻撃となる。肉眼で見えるものの話しではなく、客観的には、事実だが、被害者だと結論するのは、一つの解釈にすぎず間違っているのはその点だけだ。被害者を知覚するなら、加害者も存在させてしまい、窮状の中に居るのはその人の責任ではないと言っていることになる。相手を被害者と見ていることに気づいた時に、立ち止まり、その状況を別の見方で見る助けを求め間違った心から正しい心に移行するなら、その状況において最も思いやりのある行動をとるように導かれる。それは、熟考の末の方策でもなく、期待も思い入れもない。
リリー
真の共感とは〈聖なる瞬間〉に〈正しい心〉に繋がり、愛と一つになる事である。繫る事と自我は相容れない為、繫る時に誤りが実在すると思い込むと言う自我の罠に陥る事は無いが、私達は直ぐに〈間違った心〉に戻ってしまう。
「何もしない」とは、聖霊の助け無しには何もしない事であり、そうでなければ私達はほぼ間違いなく自我の罠に陥る。〈間違った心〉の中では、常に被害者と加害者を見ており、間違った選択を逆転し愛の自覚を取り戻す力を持った心としての認識がない。
誰かを被害者と見る時、暗黙の了解下で加害者を存在させ、前者の窮状を後者のせいにする。これが自我の罠であり、必要なのはそれを聖霊の見方で見る為の助けであり、つまり相手の自我の弱さではなく、キリストの強さに共感出来る為の助けを求める事なのである。
こうして〈間違った心〉から〈正しい心〉に移行する時、私は最も思慮深い行動に自然に導かれ、後の結果に期待を持つ事も無い。【400字】
クマ
真の共感は、イエスまたは聖霊につながっている〈正しい心〉から生じる。その時は自我を超越していて、することはすべて愛を反映するものとなる。
イエスが「何をする必要もない」というのは、イエスや聖霊の助けを求めなければ、自我の罠に陥ってしまうので、自分ひとりでは何もしないようにすべきだという意味である。自我の罠に嵌った〈間違った心〉で、相手を被害者として知覚しているのなら、外的な状況の問題を解決したとしても、真の意味で相手を助けることはできない。相手を被害者と見ていると気づいた時に、立ち止まり、その状況を別な見方、すなわち相手の中にあるキリストの強さに共感できるようになるために助けを求めなければならない。そうすれば〈間違った心〉から〈正しい心〉に移行して、その状況において最も思いやりのある行動をとるように導かれ、最も助けになることが自然に起こる。その結果についても、何の期待や思い入れもなくなる。
Sakurah
真の共感は、〈正しい心〉から、つまり、心が聖霊とつながっている時に生じる。「何をする必要もない」といことの意味は、私たちが自分ひとりでは何もしないようにすべきだということ。自分ひとりでは、ほぼ間違いなく自我の罠に陥ってしまい、相手も自分も「選択する力を持った心」であるという真実を見失ってしまう。
もし私が相手を被害者(無力でか弱い存在)として見ているのなら、癒しを必要としているのは私の方である。私が誰かの助けになるには、まずは私のこの知覚が訂正されなくてはならない。相手の中にある自我の弱さではなく、その人の中にあるキリストの強さに共感できるようになるための助けを、私が求めなくてはならない。
私が〈間違った心〉から〈正しい心〉に移行するなら、自動的にその状況において最も思いやりのある行動をとるように導かれる。最も助けになることが自然に起こり、その後の結果については何の執着も持たなくなる。
モリヤマ
「何をする必要もない」とは、消極性を勧めているのではなく、ひとりでは何もしないようにすべきだという意味であり、相手の中にある自我の弱さではなく、その人の中にあるキリストの強さに共感できるようになるための助けを求めなければ、自我の罠に陥るということである。私があなたを被害者と見ているなら、癒やしを必要としているのは私のほうである。あの人は被害者だと結論するのは一つの解釈にすぎない。被害者と知覚するなら加害者が存在しているという暗黙の了解があることになる。心を見ず、相手も自分の真実も完全に見失い、自我の見解を実証することになり、その人を攻撃したことになる。しかし、そうした誤った知覚はイエスに助けを求めることにより訂正される。もし私が間違った心から正しい心に移行するなら、それは熟考の末に思いつく方策ではなく、最も助けになることが自然に起こる。その後の結果についても、私には何の期待や思い入れもない。【400字】
sin
真の共感は(正しい心)からイエス聖霊につながっているときに生じます。
(正しい心)に「つながっている」という状態と「自我」という状態は互いに相容れないものです。
誤りが実在すると思い込み(自我の罠)、イエスや聖霊の助けによらなければ私たちはすぐに間違った心に戻ります。
知覚の訂正はイエス聖霊に助けを求めることによりなされます。その前に私が誰かの助けになるためには、私の知覚が訂正されなければなりません。相手を被害者するのは解釈に過ぎません加害者が存在していることをになります。その人がその窮状の中にいるのはその人の責任ではないと言っているのと同じことになります。
それこそが自我の罠です。
最初に被害者と見ていると気づいた時に、その状況を別な見方で見るための助けを求めること。
助けとは、相手の中にある自我の弱さではなく、キリストの強さに共感できるようになるためです。最も助けになることが自然に起こります。
のっち
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ディスカッション
コメント一覧
私は、常に被害者を見て、加害者を責め、助けの手を差し伸べ感謝されることが救済だと信じてきました。奇跡講座は、私の常識をことごとく覆してきます。でも、今までとは何か違います。これまでは、自分の行動が間違っていたと否定し、行動を反転させてきましたが、これは寄り道、それも聖霊の導きとともに心の戻り、選び直し、期待も思い入れもせず、平安な心でいることができます。この10回の要チャレ本当にありがとうございました。そして、皆さんと同じ期間課題を共有して学べたこと幸せでした。これから、加藤さん澤井さんから更新される素晴らしい翻訳文や奇跡講座書籍の要約し続けたいと思います。本当にありがとうございました。
要約チャレンジに参加することによって、物の見方〜視点、前提、自らの在り方、深く考えさせられました。
要約しながら、なぜテキストは難解な否定の否定で書かれているのか?
初めから肯定すればわかりやすい。ブロック図フローチャートで書かれていれば理解しやすいだろうにと思っていました。
私が真理を否定している。
この世界を幻想なのに現実と思っている。
分離が起こった前提で思考している。
真理を否定していることを自覚させて、訂正させるために要約チャレンジがあったのだと思いました。
ありがとうございました。