訴える人

太宰治の『駈込み訴え』を青空文庫(インターネットの電子図書館)で読みました。

「特別な愛」が、これでもかというほどに表現されていて圧倒されました。

元々私は、太宰治には「読むと陰鬱な気分になる」というイメージを持っていて、あまり好きな作家ではありませんでした。ある人が「願うなら、もう一度記憶を消して初見で読んで楽しみたい、そう思うほど、衝撃を受けた作品」と書かれていたので読んでみたのです。

あらすじを知らずに読み始め、誰についての訴えか、誰が訴えているのか…読んでいくうちにその狂気に触れて衝撃を受けました。

私が自我の思考体系しか知らなかったときは、自我の思考体系を信じているときは、確かにこのような考え方しかできないようになっていることを思い出しました。愛していると思っている子供へも、夫へも。

太宰治は、小説として自身の中で元の話を膨らませて書いたのでしょうし、私は元のお話も知らないので、どこまでが史実に沿ったものなのかも分かりません。ただ、自我を選択したことからは、すべてを自分の見たいようにしか見ないということ、自分は被害者で周りのすべてが加害者にしかなり得ないことを教えてもらいました。なにかもの悲しさを覚えました。

この短編小説を読んで、誰かにどう見られているか、ということに囚われることへの無意味さを感じました。

ただ、本当に選び直すことをしたい、ということを感じました。

小説であり作り話である、ということを前提にしても、「訴える人」の心情がとてもリアルに感じられましたし、何かを教えてもらったような気がしました。「特別な愛」というのは殺意であるということ、心の中に湧き上がってくる罪悪感は、否定的にも肯定的にも様々な表現を用いて解釈できるし、ありとあらゆるものに投影せざるを得ないということ。それは罪悪感が否認されているから。自分の中にあり自分の選択であることを否認することで、他者の中に投影せざるを得ないから。

私には、まだまだ人から評価されたいという思いがあり、行動についても評価されるための基準みたいなものがあることを感じます。他者の言動について、この小説の中で「訴える人」は、ありとあらゆる解釈をするのですが、それを読んでいるとき『赦しのメロディー』の中の文章を思い出しました。

私たちが人々の問題を見るとき、それを、彼らが「これが、私が自分が間違っていると学ぶことのできる唯一の方法なのです」と伝えてくれていると捉えるべきなのです。彼らは、「私はあまりに恐れているので、真正面から真理に向き合うことができません」と言っているのです。そして、もちろん、それこそが、私たち皆が故郷から逃げ出してきた理由です。私たちはあまりにも、真理を恐れているのです。

ですから、彼らの障壁、神経症、心労、場違いな行動、失敗だらけの人生などを通して、彼らがあなたに伝えようとしていることは、「私はこういうやり方でしか学べないのです。この道で、私に教えてください」ということなのです。『赦しのメロディー』P.69

弟子に裏切られ磔にされた、そのことをどう赦すのかということを教えてもらった気がしました。

他者が自分をどう思っていたとしても、その人が思いたいように思わせておくこと、私にはまだそれが難しい。「自分の求める自分のイメージ」を崩されたくないですし、そうなりそうな時は形態を修正したくてたまらなくなります。

他者がしたいようにさせること、それを赦すことにも抵抗を感じます。

ですが、ユダとイエスについて考えるようになってから、「訴える人」も「訴えられる人」も、どちらも自分自身なんだ…と思うようになりました。世界という夢の物語に出てくる登場人物という意味では、どの人物も同じ、自分自身の投影という意味では同じなのだと思いました 。

自我を選んだ時にはいつでも「訴える人」や「訴えられる人」になる。でも、いつでも自由はある、ということを思いました。どちらであっても、憎むことも赦すこともできるけれど、選ぶことのできる自由はある。赦すためにどう見るのかを学ぶ機会にすることができればいいのだと分かったような気がしました。「誰かにどう見られるか」ということに囚われる必要はないのだと分かったような気がしました。

( 2024年2月 by ひょうたん )