具体的な憎しみの対象こそが救済
私もようやくコロナの療養期間が終了しました。
下の娘が旅行先で発熱してからはじまった我が家のコロナ騒動もようやく終わりです。
次から次に順番に感染していきましたが、発熱は娘たちが2〜3日間、私や長男は1〜2日間ほどで、他の症状もなく、わりと軽くすみました。
兄夫婦が近くに住んでいるので、必要なものは買ってきてもらい、かなり助かりました。外出自粛期間が10日間あるので、子どもたちをどう過ごさせるか苦労するかと思いましたが、幸い我が家は敷地も庭も広く、自分たちでけっこう工夫して楽しく遊んでいました。
仕事面では、今月は大きな痛手でしたが、9月で挽回出来るめどもつきました。仕事に行けないので、子どもたちの課題をいっしょにできましたし、娘のピアノの練習もゆっくりみることも出来ました。環境にも恵まれて、特に目立った問題もなく、日々過ぎていきました。
でも、気分はまったく晴れませんでした。罪悪感の暗雲に閉ざされた感じでした。もちろん自我を選んでいるからが理由ですが、直接どうこう出来ず、悶々としていました。
ある時、旅行先で娘が発熱して旅行を切り上げたことを、私が残念に思っていたことに気付きました。それでとても楽になりました。年に一度の泊まりがけの家族旅行です。もっと家族が楽しみ喜ぶ姿を見たかったのでした。自分の投影に気付くことで、ガラリとすべてが変わりました。次々と感染する中で、家族旅行を切り上げざるを得なかったことを残念に思っていたことを知らず知らず気付かずにいたのです。否認していたのに気付かずにいたため、罪悪感に閉じ込められた感覚になっていたのです。
自分が問題だと思っている問題というのは、必ず利己的なものです。私が問題だと感じる問題というのは、すべて利己的なものです。私の家族さえよければいい、私さえよければいい。そういうもの以外はありません。
私が問題だと感じる問題の定義自体に、必ず「除外」の視点が含まれています。どれほどささやかでも、これさえクリアーしてればいいという思いの根底には、私さえよければいいんだという思いがあります。
平安以外を感じている、つまり、無意識のうちに何らかの葛藤を感じているときは、この世界に何らかの問題を無意識にみているはずで、その問題の定義自体に、私さえよければいいんだという思いが必ず含まれています。それは、この世界に生きていると思う者なら、必ずそうなのです。それ以外はあり得ないのです。この世界に生きていると思っている限り、必ず不幸なのです。この世界に生きていると思っている=私さえよければいいという思いで生きている、なのです。例外なくそうだと思います。隠しようもないことを隠そうとするから苦しいのです。
具体的に何に投影しているのかにしっかり気付いていくことがとても大切だと、改めて思いました。私の心の罪悪感は必ず投影されているので、その投影に気付くことが罪悪感の取り消しには、なんといっても必要なことなのだと思います。
日々の日常に何の問題も感じていないというのは、心に罪悪感がある限り、あり得ないことなのだと思います。
罪悪感を投影して大小様々な問題を見て嫌な感情を抱いている。この世界に生きていると思っている限り、必ずそうなのです。世界があると思っている=問題があると思って嫌な感情を抱く、なのです。
「何の問題も見えない、でも、この世界があると感じる」これは非常に苦しい状態です。この世界に問題を見ているのに、強い否認により、何に問題を見ているのかわからないというのは、非常に苦しいものです。まさに「罪悪感の暗雲」に閉じ込められている感覚です。
でも、具体的に投影に気付くことで、赦しへ向かえます。
非常に逆説的ですが、この世界に問題を見て嫌な感情を抱くことが救いなのだと思いました。この世界に投影しているから投影に気付けて、罪悪感の取り消しに向かえるのです。具体的な憎しみの対象こそが救済なのです。喜びとともに「奇跡」という言葉が浮かんできます。
いったいぜんたい何に何をどう感じているのか、それに気付かないことが罪悪感を温存していきます。恐がらずめんどうがらず、いったいぜんたい何に何をどう感じているのか、それを隠蔽することなく、敏感に、ただ正直に感じ取るだけでいいのです。私のすることは、ほんとにほんのささやかなことです。それだけでいいのです。
(2022年8月by pallaksch)

