砂嵐と聖霊
この世界にいると信じている誰もが、表面上ではわからないけれど、殺伐とした砂漠をさまよい歩いているのかもしれませんね。
混沌の法則に知らず知らずに力を与えてしまっている私たちは、或る幻想は他より価値があるので真実だという信念(T-23.II.2:3)でもって意識的にせよ無意識にせよ他人への攻撃を正当化している。混沌の法則を読んで、実際に世界は(というか自分は)そのように振る舞っているのを見るにつけゲンナリしてしまうのです(笑)。
砂嵐で途方に暮れている自分。。。
村上春樹「海辺のカフカ」は主人公である15歳の少年が砂嵐で途方に暮れている心象から始まります。ここがとても好きです。自分だけではなく、ここにいると思っている誰もが本当は途方に暮れているのだと思うと、砂漠のなかでどうこうするのではなく、やはり砂漠自体を超えていきたいなと少し活力が湧いてきます☆
私たち一人ひとりがさまよい歩いている場所なき場所。
まっとうな時間さえないような自我の思考システムである砂嵐。。。
(以下、「海辺のカフカ」から一部抜粋)ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な“なにか”じゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏みいれ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、あるばあいにはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。
このような砂嵐=間違った心においては、投影というダイナミクスで宇宙、そして私という個という幻想が生まれ、そこにおいて作出するすべての関係性は基本的にすべて特別な関係というテーマのパロディーです。どの関係性も二元性のダンスという意味で同じものだということだったのかもということが少しずつ腑に落ちてきました。「この宇宙は夢なんだ」p114のタンゴを踊っている二人の図も私の中にインパクトを残してます。特別な“愛”の関係も例外なく見るというのはとても難しいですよね。<特別性の魅力>といったものも含めて。
テキストにも砂漠を比喩的に用いている箇所があります。
聖なる瞬間とは、愛があなたの荒涼として喜びのない王国の中に入ってきて、平安と歓迎の庭園へとそれを変容させてくれるようにと、あなたが愛に差し出す招待である。愛はそれに応えずにはいない。あなたが肉体をもたずにやってきて、愛が喜んで訪れるのを阻む防壁を設けなかったので、愛はやってくる。聖なる瞬間にあなたは、愛があらゆる人に差し出すものを、それ以上でも以下でもなくそれだけを、愛に求める。一切を求めるので、あなたはそれを受け取るだろう。そしてあなたの輝く自己は、あなたが天国から隠しておこうとしていた微小な側面を、真っ直ぐに天国へと引き上げる。愛の一部がその全体に呼びかけて、徒労に終わることはない。どの神の子も神の父性の外にとどまることはできない。[T-18.VIII.11]
カフカ少年の旅もそうだったように決して楽なものではなかったけれど、砂漠の外から我々を見守り、歓迎している聖霊が今もここにいるということを知っておくのは救いになりますよね!
(2019年6月by ひつじ)

