超えていくために

随分と気温が高くなり、愛犬のまるが、お散歩で休憩する時間が長くなってきた。

今朝も、随分長く地面にベターっとあごをくっつけて「僕は今、休んでます」と言うので、私もゆっくりと立ち止まっていた。

すぐそばで人の話し声がはっきりと聞こえる。目の前を小さな小さな虫が飛び交う。雀がいて、トカゲが横切り、風が頬を撫でていき、車の音が聞こえ、扉が開き人の気配がし、向こうに歩いている人が見える。

話の内容には意味があるように思えるし、その話は移り変わっていくし、別の人からは別のテーマの話が聞こえてくる。

目にはどんどん色々なことが見えるし、色々な人が見える。

私は耳で聞いて、目で見て、嗅いで、触れている。

私がいて、成り立つ。と思った。私がいて、あなたがいる。私がいて、木々があり、私がいて、風を受ける。私がいて、空気がある。私がいて、それ以外のすべてがある。私がいて、ということが前提で成り立つ、と思った。

耳で聞いている。聞こえてくる。それは聞こえ続ける。それを聞かない、のではなく、それを超えていく。それに意味を与えない。それにのめり込まない。

けれど、それは、すべて「私がいて」という前提の上では出来ないことだなあ・・・と思った。

「私がいて」という前提の上では、私は外を知覚してしまう。

「私がいて」ということはもう自我を選んでいるということだ。

「私がいて」という認識のままでは、聞こえてくるものも、見えているものも超えていけない。
実在させてから、「赦すけど忘れない」 をしているみたいだ。

やっぱり、外ではないんだな・・・と思った。

私、というアイデンティの問題なのだなあ・・・と思った。

でも、「私がいて」と思っている。

「私がいて」と思ってはいけないのでもなく、思っていないふりをするのでもない。

それを超えていくために、それを見る。それをまずは認めないことには、それを取り消す機会を失ってしまう。

外を知覚する。ということは分離を選んでいる、ということで、それは私が分離された存在である、と自分のことを認識しているということで、だからそのことに気が付いたときは選び直すチャンスなのだ、と思った。

だから、外を知覚するのは、悪いことではないし、学びが停滞しているわけでもないし、自我にどっぷりと浸かっているということでもないのかもしれない。

どうしても、「私がいて、その私が外を赦す」という風に考えている、ということを改めて認識した。

相手を見るのではないのですね。自分を見るのですね。

自分が、自分をどう見ているのか。わたしとは何者である、と自分が認識しているのか。

私は何者になりたいのか、ということが、今の私を決定していて、私は何者になりたいのか、と自問することが、今の私に選択の機会をくれるのかもしれない。

外を見て、自分が分離を選んでいることに気が付く。

(2022年4月 by maru)