幸福を選ぶ
昨日、音楽についてここに書き込んですぐに、自分が演奏することと、罪悪感の投影は別のことだと気づき、一気に楽になったと書いたが、実際にあれからすごく楽になった。
しかし、しばらくして身体に疲れが出た感じで、すごく気だるい感じがした。以前なら、抑えていたものが出て緊張が解けたのだから、そうなって当然だ、と思っていただろう。
でも、それはおかしなことだ。
静かな幸福感がともなわなければ、何かが間違っているのだ。
俺はまだ完全に癒されていないから、それは当たり前だ、と思いそうになったが、それもおかしなことだと思い直した。
昨日一昨日の俺も完全には癒されていない俺なのに、静かな幸福感の中にいることがあったのだから。
俺がどこまで癒されているとか、どれだけ進歩しているかとか、そういうものこそ間違いだ。
良いとか悪いとかなど存在しない。進歩退歩という考えに罪悪感を隠して、時間を実在化している。
今あるのは、聖霊を選んでいるか自我を選んでいるかだけだ。
ヴァイオリンを弾かないからまだまだ癒されていない。
それはおかしなことだ。
人生を振り返るようなことをしていないことがまだ癒されていない証拠。
これもおかしなことだ。
それらに抵抗感を感じるなら、その時々に赦しを実践する。それでいい。
それにまた、まだまだ癒されていないという事が感じられたら、そのことを聖霊とともに見ればいい。それを聖霊と裁くことなく見れば、静かな幸福感が訪れるはずだ。
気だるさがあるなら、そのことを裁いている。
気をつけないと、まだまだ癒されていないと感じられた事が、聖霊を選ばないための理由になってしまう。
それと、ここに何を書き込むか書き込まないかを、癒され度をはかる目安にしようとするのも、おかしなことだ。
目的が赦しの実践の意欲を高めるためであっても、下手をすると、カトリックの告解と同じようなものになり、罪の存在をより強固なものにしてしまう。ここも気をつけながら、活用しよう。
ヴァイオリンを弾くことも、ここに何を書くかも、あくまで行動レベルのことだ。何をするかはまったく問題ではない。まったく同じことをまったく反対の意味ですることもできる。
意味があるのは、たった今聖霊を選んでいるか自我を選んでいるかだけだ。そして、俺にわかる基準は、静かな幸福感の中にいるかいないかだけだ。
常に二択だけ。
不完全に聖霊を選んでいるなんてない。
気だるさを感じながら甘美な憂愁にたたずもうとしていたが、もうそうしたこととはお別れだ。
俺は幸福を選ぶ。
(2018年11月by pallaksch)
