平安を欲するようになることを学ぶ

職場のYさんは65歳の独身女性で、お金も身寄りもないらしく、「ねぇアムロさん、老後はどうしたらいいと思う?」としょっちゅう聞いてくる。なので私は聞かれる度に、「市営住宅に引っ越しては?生活保護を申請してみては?」と思いつくまま解決策を提案しているのだが、決まっていつも、「でも…」、「でも…」と煮え切らない返事が返ってくる。

ある日、とうとうイライラが頂点に達し

「あれも嫌これも嫌と言い訳ばかりしてないで、ちゃんと自分の老後に向き合ってください!孤独でお金もない老後はすぐそこまで来てるんですよ!」

と言ってしまった…。

あーぁ、なんであんな事言っちゃったんだろ…。

その日はひどく落ち込んだまま家に帰り、【質問】No.12「私の平安は長続きしないように思えます。なぜなのでしょうか?」を読んだ。

私たちの自我が、折りに触れ私たちをだまして、自分は平安を選んだのだと私たちに信じ込ませることができるというのは、本当のことです。

【質問】No.12
どうして、私の平安は長続きしないのでしょうか?

先日はイライラせずにYさんと話せて、平安を選べたと喜んでいたのになぁ。自我に信じ込まされていたのかもしれない。

そのとき、私たちは実は、自分のやり方を通すための方法を発見しただけだった、ということはあり得ることです。

けれども、あなたの平安な瞬間のすべてを、単にそれらがまだ永続的なものではないからということで、まがいものとして退けることはしない方がよいと思います。私たちには、まがいものでない正真正銘の平安が自分にもたらすことになるもの — つまり、私たちが自分だと思っている自分との一体感が無くなること — に対する恐れがあるために、学びの進行にともない、私たちは平安と葛藤の間を揺れ動きます。

【質問】No.12
どうして、私の平安は長続きしないのでしょうか?

「平安を選択する」というのは、罪悪感や恐れが表面化しそうになるたびに、そうした感情を再び押し込めておこうとして私たちが唱える単なる決まり文句ではないのです。そして真実を言えば、自我と一体感を抱いている限り、私たちの中には平安を欲していない部分が残っている、ということです。

【質問】No.12
どうして、私の平安は長続きしないのでしょうか?

平安を欲していない部分が残っている」

このような部分が自分にあると初めて知った時はとても驚いたが、最近はこの部分を、裁いたり咎めたり、よからぬものだからどうにかしなくてはと思わなくなった。

平安を欲していない部分を自覚していても、していなくても、それは自分には当たり前のようにあるのだと理解し、同時に、同じところに救済も置かれているのだと理解すれば、どんなことも安心して教室としてみることができる。

私たちは、自分が平安の代わりに選択したものを正視し、それが自分にどのような損失を被らせたのかを確認することによって、自ら平安を欲するようになることを学ぶのです。 そして、自分の選択を裁くことなしに、自分が選んだものを正直に見つめられるようになるにつれ、やがて、真にそれに代わるもう一つの選択肢が、私たちにとってますます願わしいものになってくるのです。

【質問】No.12
どうして、私の平安は長続きしないのでしょうか?

「平安を欲するようになることを学ぶ。」ここがとても新鮮に感じられた。平安を欲するなんて、わざわざ学ばなくてもそんなの当然だ、と思うのだが、「私たちの中には平安を欲していない部分が残っている。」こちらもまた、当然なのだ。

自分の選択を裁くことなしに、自分が選んだものを正直に見て、それが自分にどのような損失を被らせたのかを確認することによって、もう一つの選択肢が、私たちにとってますます願わしいものになってくる。

Yさんにイライラをぶつけた後の気持ち、あの嫌な気持ちが、自我を選択した結果の平安の損失ならば、私は聖霊を選択した結果の平安を望む。

Yさんの喜びも、私の喜びも、ひとつになったような、あのすべてを包み込むような平安を、私は欲する。

( 2019年3月 by アムロ)