真の赦しとは
少し前、対人関係で不快に思うことがあった。簡単に言えば、相手方の言動に傷ついたのだ。でもこれは美味しい赦しのネタである(極上大トロ入荷しました!)。というわけで、早速教材を読んでみた。
「JQA#12: 原因を取り消すのか、結果を取り消すのか」の回答より一部引用する。
以上のことを赦しのプロセスの説明につなげるなら、次のようになります。
JQA#12: 原因を取り消すのか、結果を取り消すのか
誰かが自分を攻撃したとき、その相手について、「私はこの人の行為によって、ちっとも傷ついていない。今も、神の愛から離れていない」と言えるなら、その相手の行為は、「私の悲しみや苦しみ」の「原因」とはならなかったことになります。それはとりもなおさず、「にせの原因」を素通りしてしまうことです。「原因」になりすましているものを「原因」と認めないということです。まるで、壁が透明になって、そこをすーっと通り抜けてしまえるようなものです。そのようにしてそこを通り抜けているときには、「真の原因」のレベル(=心の中)まで戻っています。だから、「他者の言動が自分に何の結果ももたらしていない」と示すことが、「真の原因」を変えることになるのです。
→個人的感想として、注意すべき点は、「真の赦し」と「ただ我慢するだけ」「見て見ぬふりをするだけ」(破壊するための赦し)との区別をしっかりしなければならない思った。すなわち誤りを実在させた上での赦しではなく、『奇跡講座』の形而上学理論に乗っ取った、正しい赦しのステップを踏まなければならないと思った。
JACIM本館の質問も読んでみた。
【質問】No.99 他者からの攻撃と自分自身による攻撃との関係
この質問によると、「他人から不当な攻撃を受けたと私が思うとき、それは、私自身も他人を攻撃したことになる」という、一般常識からはにわかには信じ難い力動について、すなわち「投影」という力動について、ワプニック先生が解説されている。それによると…
この「投影」という精神力動によれば、私は、最初に自分自身の中に攻撃を見ていたのでなければ、あなたの中に攻撃を見ることはできない、ということになります。実は、形而上学的に言えば、あなたはただ、私の攻撃の想念の投影としてのみ、存在しているのです。それは、私が自分の攻撃の想念の責任を取らなくてすむようにするためです。
【質問】No.99 他者からの攻撃と自分自身による攻撃との関係
つまりこれは、テキストで言われている、
救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。攻撃の形の如何にかかわらず、依然としてこれが真実である。敵や攻撃の役割を誰が担っていようと、依然としてこれが真理である。何があなたが感じている苦痛や苦しみの原因に見えようと、依然としてこれが真実である。
(T-27.Ⅷ.10:1-4)
と同じことなのだろうか。
さらに書籍「奇跡講座入門」も読んでみた。P134~139 (赦しの実践の具体例)を自分なりに要約してみる。
(相手方が攻撃してきたときに、自分の心の状態が)
①間違った心の状態にある場合
→自分は自我であると信じているわけだから、必然的に自分は罪悪感を感じている。自分が罪悪感を感じているという事実自体が「自分は攻撃されるべきだ」と心のあるレベルでは信じていることになる。この状態で相手から攻撃されると、攻撃的態度(反発するか泣くか)で応戦することとなり、自分がすでに感じている罪悪感をさらに強化することになり、また攻撃している相手方の罪悪感をも強化することになる。つまり、相手方の罪悪感と自分の罪悪感が直面した時、自分と相手方双方の罪悪感を強化し合うこととなり、お互いますます罪悪感の牢獄に住み続けることになる。
②正しい心の状態にある場合
→正しい心の状態にあるので、自分は罪悪感を感じていない。その状態で相手から攻撃されても、相手方のどんな言動も、神の愛を感じている私の平和を奪うことは出来ない。神の愛に満たされている人が、恐れたり、怒ったり、他人を傷つけたり、攻撃的になったりすることはあり得ない。相手が攻撃してくるということは、相手は罪悪感を感じているということであり、だからこそ攻撃せざるを得ないのだ。罪悪感を持たない正しい心の状態にいる自分には、相手の攻撃は、どれもみな「私(相手方)が間違っていると教えてほしい。私を愛する神がいると、そして私も神の子であることを教えてほしい、私があり得ないと信じている神の愛が存在することを示してほしい」という、助けを求める呼び声か、愛を求める呼び声かのどちらかとして受け止められる。
~以上、いろいろな教材を読んでみた。赦しの大トロ美味しくいただきました。
『奇跡講座』はシンプルだが難しい。特に、これらの教材の教えを頭では分かっても、いざ生き方として実践するのは並大抵なことではない。真の赦しを修得するには今回のようなネタを手がかりに地道に練習して行くしかない。これからも少しずつ学び実践して行こうと思う。
ただ、繰り返しになるが、「真の赦し」と「破壊するための赦し」の違い、一見紙一重の違いのようだが、決定的な違い、に留意して、気をつけて実践していきたいな、と思った。その上で、最初に戻るが、
「私はこの人の行為によって、ちっとも傷ついていない。今も、神の愛から離れていない」
としっかりと、はっきりと確信を持っていつか言えるように、自分の生き方で示して行きたいな、と思った。
(2022年4月 by DTA1973)
