対等性
冊子、聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説、P37-47「第四段落」を読んで感じたことを書きたいと思います。
前に読んだことがあるはずなのに、初めて読んでいるような気がしました。ここに「奇跡の第一原理」について書かれていたことも、「対等」というキーワードがあるということも、全然覚えていなくて、まるっきり初めて読んでいるような気持ちになりました。
惹かれたことろは38ページの
ですから、この「聖霊のレッスン」というセクションの文脈の中で、奇跡の第一原理が、どのような意味をもつのかが理解しやすくなるように、その背景を少し説明します。
ここにとても惹かれています。また、40ページ
ですから、こうした思考が、この下向きの矢印の原動力となっていると同時に、「分離」の思考体系を維持しているものなのです。
ここを読み、自分の思考をみていると、「ホントだ~」と思い、ゾッとしました。
43ページ
けれども、(A.4:2-3)の中にも、「まだ信じられるものとはなっていない。したがって、あなたはそれを理解せず、それを使うことができない」とあるように、この原則を信じ、理解し、使えるようになるまでには練習が必要です。
ここでいう、「練習」とは、日々の一回一回の、赦しのことをさしているのだなと思いました。
46ページ
そのキーワードとなるのは、「対等」という言葉です。奇跡とは、「完全な対等性」(4:6)を信じることと描写されています。
キーワードである「対等」ということについて理解が深まればいいなあ、、、勉強したいなあ、、と思っています。
47ページ
(この「対等性」には、「平等」というようなニュアンスだけではなく、神の子はみな「同じ」であり、「ひとつのものである」ということも含まれています。ただし、完全な(一なる状態)は、実相においてのみ可能ですので、赦しを学んでいる段階の私たちという意味での神の子は、誰でも、〈正しい心〉と〈間違った心〉と〈決断の主体〉をもっているという意味で「同じ」である、という意味になります。)
この「赦しを学んでいる段階の私たちという意味での神の子」という描写もとても響いています。
でも、、、、と、今、浮かんでくるのは、「でも、夫は赦しを学んでいないけど?」という言葉です。
赦しを学んでいなければ、これには該当しないのか?という言葉です。
この声こそが自我の声なのかなあ、、と思いました。
私は、夫に「正しい心」を選ぶことができる日が来るとは思えないし、赦しを彼が学びたいと自発的に思う日が来るとは思えないし、べったりとくっついている自我の思考から彼が離れたいと思う日が来るとも思っていません。それは、結局、私が自分に対してもそう思っているからだと思います。
彼のことを、そのように非常に決定事項のように見ている、ということが即ち、私自身が自我の思考体系を握りしめて、絶対に〈正しい心〉を選ばない!!!と宣言している、ということなのですね
おー、、、、、、
赦しにおける彼の役割は、ここまで、、、、???なのかな。
ここまで、きたら、やっぱり向かうのは自分の心の中なのですね!
(2022年7月 by maru)

