自我の目的と聖霊の目的
週末がしんどい、これは私のパターンである。
平日は通勤時間に『奇跡講座』に触れるのが習慣化しており、仕事の緊張感もあって、自我を観察てきでいることの方が多いと感じている。
しかし休日は、完全に自我と同一化し、その自覚もないまま無気力人間となり、その苦痛を誤魔化すために過食に耽ってしまう。
先日の週末からそれは悪化していた。何とかしたい、もっとアクティブに溜まった家事を片付け、休日を楽しみたい。そう思いながら2週目も打ちのめされ、先週末がやってきた。
土曜日の私の心は沈んでいた。
「何もしたくない、この世界には希望がない、何をしても虚しいだけ、喜びがない、生きる意味すらない。」
心が苦しくて苦しくてたまらない、まさに出口がないと感じていた。
しかし日曜日は、何かが違っていた。
「生きる意味とは何だ、それは生きる目的と言い換えられるのではないか?」ふとそんな思考が湧いてきた。
目的というのは、小冊子「思考の逆転」(P67-P72)でも取り上げられていたトピックだ。
あなたが確信を持てない状況にいるときにまず最初に考慮すべき事は、端的に言えば、「私はここから何を望んでいるのか。それは何のためのものか」ということである。ゴールを明確にすることが最初にすべきことである。それが、結果を決定するからである。自我の手順においては、これが逆になっている。状況が結果を決定するものとなり、結果はどのようにでもなり得る。この秩序のないアプローチの理由は明白である。自我は自分がその状況から何を望んでいるのかを知らないのである。自我は何を自分が望んでいないのかを自覚しているが、自覚しているのはそれだけである。自我には積極的に目指すゴールがない。
(T-17.VI.2)
テキストを読み返して気づく、私は自分を肉体だと認識し、この世界の被害者として、私にできることは何もなく、この苦痛をずっと抱えて死ぬまで生きねばならないと、絶望していたのだと。
それは自我の目的を選択していたということだ、そしてそれに気づいた私には、もう苦痛という代償を払うのは真っ平御免、聖霊の目的を選択したいという意欲があった。
ずっと同じパターンを繰り返していたが、はじめて自我の力動を認識することができた。
( 2022年6月 by ようすけ)

