絶対に理解したくないこと

聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」からの引用です。

p.31

神は永遠に不変ですから、破壊されうるもの、移り変わるもの、変化するものなどはすべて、神に属するものではなく、従って、実在していない、と説明されています。

私たちが、「神は永遠に不変である」と思う(納得する)ことと、実際にそうだと思い出すこととの間には、ものすごく広い隔たりがあるように感じます。

このギャップを、学習と実践により埋めていくわけですが、肉体に起きているように思える反応がひどかったり強かったりすると、進むのがきついときもあります。

p.32

そして、(2:2)には「肉体は、あなたが自分は何であると考えているかを象徴するもの」という興味深い言葉が出てきますが、ここでも、「あなた」というのは「肉体」そのものではないという前提で語られています。

確かに興味深いです。この文章を初めて読んだときも、今も、目にするたびに繰り返し読んでしまいます。

絶対に理解したくないことなのだろうと思います。

この肉体とそれを取り巻く世界を使いながら、聖霊に教えてもらっていますが、すぐに自我的な見方に戻り、くじけそうになることしばしばです。

そんなときは、やはり、原因と結果を逆に捉えてしまっています。

p.34

「心の方が肉体より強い」というのは、心の力が「原因」であり、肉体は「結果」だからです。

何かがあって心が乱れているときに、「あっ、違う違う。このことが原因で心が乱れているわけではない」と、すぐに思えるときと、しばらくたってから思い返したときに無理やり思おうとしているときと両方あるのですが、それは、問題に大小があると思っているからなんだろうと思います。

そしてその見方は、なかなか変わっていかないように思えるのです。

それも自分で決定しているわけなんですけど。

病むのは肉体に限ったことではなくて、世界の争いごとから機械の不具合として現れていることなども含まれています。

「良い」と思われることの中にも、「正しい」と受け継がれている慣習の中にも、病の片鱗は見られると思います。

その病気が無価値だと本気で認識できるようになるために、日常のあれこれをレッスンにしているつもりではありますが、「その認識の度合いに厳密に比例して、必ず癒しが起こる」ということです。

自我の思考体系と同一化している自分が、いくら「これは無益だ」と思っても意味がなく、〈決断の主体〉としての自分(心)が、「この中には、私の益になるものは何もない」と思わなくては、癒しは起きないのだと思いました。

上記のことに関係のありそうなところを、用語解説より引用します。

癒し [healing]

分離や肉体を実在のものであるかに思わせる「病気の実在性を信じる信念」を、その持ち主である心の中で訂正すること。分離した肉体を見ること — これが全ての病気の発生源 — をやめて、「この世界における癒し」という私たちの共有の目的を見ることへと知覚を変化させることで、すなわち赦すことで、他者と繋がったときにもたらされる結果。癒しは、私たちの真のアイデンティティーは肉体ではなく霊であるという信念を土台とする。したがって、肉体や自我だけがなり得る病気というものは、すべて幻に過ぎないものとなる。こうして癒しは、「奇跡に難しさの序列はない」という原理を反映する。

(2022年7月 by Susan)