ありのままに見る

「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」p.52からの引用です。

「あなたと私は異なってはいない」と伝えるということの意味をもう少し具体的に言えば、「あなたが何を言おうと何をしようと、私はあなたを攻撃しない、裁かない、咎めない、怒らない」といったことに相当します。ただ、相手をありのままに受け入れるということです。

「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」p.52

「あなたが何を言おうと何をしようと、私は、たとえ怒りを表してしまったとしても、その怒りを正当化しない」ということには、日々の積み重ねで、少しずつですが抵抗がなくなってきていると感じます。
ですが、なぜ異なっていることが攻撃につながっていくのかが分かっているときもあれば、日常の出来事と照らし合わせるとあやふやになってしまうときも多くあります。

私たちが異なってはいないということについて、『奇跡の原理』にも何か書いてあったなと思い、適当に開いたところに、「私たちはひとつであり、同じである」と見えたので、読んでみました。

奇跡は、「私たちはひとつであり、同じである」ということ、そして、「私たちの価値は、神によって確立されている」ということを、私たちが認識して思い出せるように助ける、ということです。

『奇跡の原理』p.163

どんなことにも例外を設けることなく赦しを実践していけば、神によって確立されていることを徐々に思い出せるようになっていくはずなんですね。
神によって確立されているのだから、それはゆるぎない確かなものであるのに、時々自分だけが除外されているような気分になります。それでは神は不完全なものになってしまうというのに。
これでもだいぶましになってきましたが、学び始めのころは、完璧に除外されていると感じていました。
どうしてもそこに自分を含めることができないということ自体、分離していると信じているということなので、自分で自分を除外しているというわけなのですが……。

そして続きに、こうあります。

あなたの価値は、私の価値と同じです。もし私があなたを私より価値ある人と見たり、私より価値のない人と見たりするなら、被害者と加害者を見ていることになり、それは攻撃です。そして、それは一なる子への攻撃ですから、一なる子を創造した創造主への攻撃でもあるということにならざるをえません。『奇跡講座』の終始一貫した教えは、「私たちはみな同じである」ということです。そしてその「同じ」ということの意味は、肉体レベル(心理的なものも身体的なものも含む)の表面的な差異を超えて、私たち全員の中に在るキリストの一体性において「同じ」であるだけでなく、さらには、私たち全員が「自分が忘れたものを思い出して、自分の罪悪感という牢獄から抜け出す必要」を共有しているということにおいても「同じ」である、という意味です。

『奇跡の原理』p.163-164

非常に論理的で分かりやすいと思いますが、表面的な差異を超えて見ることを体験することは、できたとしてもたいていほんのわずかの間だけで、なかなかいつどんな場合でもという具合にはいきません。

はじめに引用したp.52に戻りますが、私には、「ありのままに受け入れる」ことがどういうことなのか、よく分かりません。
神が創造したままに見る練習をしているわけですが(例えば、「ワークブック」のレッスン271など)、
「自分にとって真理であってほしいものの証拠を選択」(W-pⅡ.271.1:1)し続けています。

私の職場は、毎年4月から5月がとても忙しく、今年も例外ではありませんでした。
その仕事が立て込んでいるときに、厄介事が発生しました。
「こんなときにこんなこと、どうやって赦すんじゃい!キーッ!」となっているときでも、「いやいや、私一人で赦すわけじゃないんだから、できるできる」と冷静になり、仕事をしながら心の中で赦しのステップをたどりました。

ふと、「ありのままに見る」ということが思い出されました。

「でも、兄弟をありのままに見るったって、神が創った真の自己がどんなだか思い出せないのに、無理でしょ」と、自我と一緒になってぶつぶつ文句を言いながらも、その気持ちを差し出し、見ようとしてみました。

こういうことは職場でのことに限らず何度もあり、赦せば気持ちが静まったり、見方が変わったり、場合によっては状況まで変わったりすることは分かっていますが、ありのままということを私は受け入れたくないようで、その視点に関してはぴんときませんでした。

でもこのときは、急に俯瞰して見ているような感じになり、「私が間違えた」ことに気が付いたのです。
知覚しているこの状況、もっと引いてみればこの世界は、私が間違えたので出来てしまったということを再確認しているように感じました。

間違いを見て聖霊に差し出し訂正してもらえばいいと教えられ、だんだんその教えになじんできていても、意識しなければ、「間違ったら罰せられる」というイメージがすぐに湧いてしまいます。
そのほうが自然だというふうに強烈に染み付いているのです。

あのとき、確かに自分は間違えていたと気付いたのですが、罪悪感が湧きませんでした。
あの一瞬、<正しい心>に触れて、「B’」(B prime)の視点に立てたのではないだろうか。そんな気さえしました。(※「B’」(B prime)についてはJQA#21参照)

今だって神が創ったままの自分というものはよく分からないのですが、あの経験を思い出すようにすると、自分の選択の結果なのだというところに立ち返りやすくなると思いました。

そして、「こんなこと、聖霊に頼らずにできるわけがない」とも思いました。

(2022年7月 by Susan)