柔らかい空気

『聖霊のレッスン』からの引用です。

自我は「与えてしまえば、自分のもとには残らない」という原理に基づいて、自分の罪を他人に与えてしまって、自分は罪から解放されようとしているからです。

『聖霊のレッスン』p32

これに関係することについてぼんやりと考えていました。

私は確かに夫や職場のCさん(前にフォーラムのひとりごとで書いた、パートから常勤に変わった、私の赦しの対象の人)に
自分の罪を投影し、責めていました。
その罪を実在のものとし、自分がしてることをちゃんと自分で認識しなさい、と
罪悪感を持たせようとしていたのだな、と思います。

彼らを赦すなんてしたくない。赦したら彼らが幸せになってしまう。
自分のことしか考えていない彼らが幸せになるなんて、そんなのズルい。という
自我バージョンの考えからなかなか抜け出せませんでした。

一方で、少し前(読書会が始まる前)から、職場でも家でも
「誰も私のこと咎めないんだな」ということを感じていました。

仕事で私がミスをした時、誰も私を咎めるような事を言わず、むしろ気づかってくれるような感じだったし
私は夫をずっと責めてきたのに、夫は私のことを何も咎めないのです。
何か言ったら倍返しにされるから、それが面倒で何も言わないのだろうと思っていたのですが、
そういう感じでもなく、何というか、空気感?が柔らかいのです。

咎めのない世界っていいなぁ、と思いました。
でも私はまだまだ自我を強く握りしめていて、それを手放すことは難しいと感じているのですが、
人を攻撃することは自分を攻撃することである、ということはこれまでの体験から感じていることでもあるので、やはり咎めのない世界の方がいい。
だから人を咎めるのはやめたい。

最近はそのような意識を持って過ごしていたと思います。

自我をすぐに手放すことはできないけれど、僅かな意欲を差し出しながら
心の中にあるものを咎めずにただ見る。
それを続けていくことならできる、と思いました。

(2022年7月 by たんぽぽ)