海面下の氷の塊

『奇跡講座入門』の71ページに、『奇跡講座』の言う罪悪感についての説明があります。

ところで、罪悪感について『講座』が語るとき、普通の「罪悪感」という言葉とは異なった意味で使われています。普通、この言葉は、ほとんどいつも、「私は自分がしたことや、しそこなったことについて、悪かったと思う」というニュアンスで使われます。そうした罪悪感は常に、私たちの過去の何か具体的なものに付随しています。けれども、このように意識的に経験される罪悪感は、氷山の一角にすぎません。氷山を思い浮かべていただくと、海面下には、巨大な氷の塊が埋もれているわけですが、この塊が『講座』の言う罪悪感を表わしています。罪悪感とは、実際、私たちが自分自身について抱いたことのあるすべての否定的な感情と信念と経験の総和です。ですから、あらゆる形の自己嫌悪や自己拒絶が、罪悪感と見なされます。つまり、無能力、失敗、空虚感といった感情、または、私たちの中で何かが不足していたり、欠けていたり、不完全で何かもの足りないといった感情などのすべてです。        

『奇跡講座入門』71ページ

「罪悪感」というものについてのこの定義を読むと、「自分は罪悪感を持っていない、感じていない」とは、とても言えなくなりますね。

生活の中には、いつも、なんらかの「否定的な感情と信念と経験」がありますし、ごく当たり前だと思っている社会的常識の中にも、「〜であることが正しい。(できなくてはダメ)」というような、否定的な感情と信念と経験があります。

さらに、自分の中をサーっと見渡すだけでも,「罪悪感」に当てはまるものがさまざまに思い浮かびます。

しかもそれが「氷山の一角」だと言われると、それ以上考えたくないというか、その奥を安易に見ることはできないという気持ちになりますし、思考がストップするような感じがしています。

自分がこの世界の住人で、一個人であるということを信じているということは、(基本的にそのようなアイデンティティーで生活していますので)「神に対する恐れ(=罪悪感)」を引きずって過ごしているのだと思いました。

そして「神に対する恐れ(=罪悪感)」によって、神は善悪の審判のような存在となっていて、たとえば、親が子を躾ける際に便宜上使用するといった形で、幼い頃から、「罰を与えることもできる神」というイメージを、教えられてきたようにも思います。

でも、それは、便宜上に使われる前から、私たちの意識の根底に「分離が起こったと信じる信念」「神とは違う個別のアイデンティティーを作ることができたという信念」があって、罪の意識があるからなのですね。

氷山の海面下にある巨大な氷の塊に隠されている「罪悪感」が「神からの処罰を恐れている」という恐れの根源になる、ということなのですね。

(2022年12月 by シャンティ)