認めて、頼る
聖霊を教師にしていると、「さまざまな困難も、切羽詰まった状況に置かれることも、全部自分で選んでいる」という自覚のようなものの輪郭が徐々にはっきりしてくるのだが・・・外側で自分が体験しているように見えている状況が厳しいことに変わりはない。
それに、聖霊に差し出す意欲が高まっているときのほうが、抵抗も強まるのか、物理的に肉体と時間を使っているという感覚も強調されるようで、本当にきつい!
それでも、「赦しを進めていくとそのようになってしまう」というこの考え自体も自分で作り上げた幻想だと思って舵を切り、「何度でも選び直すんだ!」と心を新たに取り組む。
すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。
(W-pI.193)
確かに、すべての苦悩が赦そうとしない思いであるようには見えない。しかし形の奥にある内容はそれである。
(W-pI.193.4:1-3)
この同一性が学びを確実なものにするが、その理由はこのレッスンがあまりに単純であるため、最後には拒否できないからである。
「何が起きているように見えても、たどっていくと必ずそこにたどりつく、ということは、もういいかげん分かったよね。抵抗するのはやめようよ、私」と自分をなだめるが、それも自分一人でやると間違える。
そもそも私には一人で決定することなどできないのだった・・・そう思ったときに気づいた。私にはそれが許せないんだと。そして、「神から離れたい」という神の子としての気持ちが「私の気持ちなのだ」と、ばらばらだった自己概念が一致したような感じになった。
神が私に学ばせたいのは、神の子の無罪性のはずだが、私には罪があるとかたくなに信じて譲らない。そこをほどいていく助けをイエスに求める。
神は赦そうとしない想念を一つでも訂正されないままに放置することはない。
(W-pI.193.9:2)
このようなことを言われたときの自分の反応のしかたで、自分が自我を選んでいるとことが分かる。
これが神の愛だとはまったく思えず、神を敵として認識するか、
偽の神を作り上げて罰を与えられていると思い込むか、
たいていその二つなのだが、そのように感じているときは、「自我が本来の自分だ」と信じて疑わないときだ。
苦しくてどうにもならなくなってくると、余計に外側のどこかに解決策を探そうとする狂気に走りそうになる。
さらには、「罪があるという声を大きくしているのも自分なのに、なぜそれが分からない?」と自我と一体になり、『奇跡講座』を利用して自分を責めてしまいそうになる。
だから、それをしないように助けを求めよう。
自分が間違っていると謙虚に認め、イエスと聖霊に頼ろう。
そして、私よ、
彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。彼には、欺かれたら選び直し、間違えたら心を変える自由がある。
(W-pI.194.7:7-8)
これを忘れないで!
(2023年3月 by Susan )

