優しい眼差しに見つめられて
ワークブック解説(1)の講義の座談会に参加してから、日常で心に戻ろうとすることが多くなったと思う(当人比)。
何かを判断して、それにこだわろうとしている時に、そのこだわりの上で良いと思ったことと悪いと思ったこと、そのどちらの状況も同じと見る心なら、どう感じるのだろうと静かにしてみる。全てを同じとして見る心の見方で見るために、全てを同じとして見る心を拠り所にしたい、そのためには、自分の判断を脇に置いて心に戻ろうとするしかないので、結果、諸々の事柄は、すべて心に戻るためのきっかけ、機会を提供してくれるものとなる。
良いと思われる人や事柄も、悪いと思われる人や事柄も、実は、同じ機会を提供してくれているのだから、どちらでもいいのだと解放されて楽になった気がする時や、大きな暖かい奔流が背後から流れ出してくるような気持ちになれることもある。
それとは逆に、心に戻ろうという気持ちが表面を上滑りするだけだったり、心になど絶対に戻りたくないと思う時もある。
この頑なに抵抗する気持ちと、意欲がある(ように思える)ときの気持ちと、そのどちらも、同じとして見る心でみるなら??と考える。そうすると、とんでもなく優しい眼差しで見つめられているような気がして、このように全てを見つめたいのだと感じる。ダメな自分、ダメな○○、そう決めつけて攻撃的に苛んでいるのは、常に先に語る自我の思考体系を選んだ私なのだけれど、それをより大きく優しく見つめてくれる存在への信頼を深めていきたいと思う。
誤った知覚がどうして罪であり得るだろう。兄弟の誤りはすべて、助け主の業を見るための機会以外のものにしてはならない。この助け主は、あなたが作った世界ではなく彼が作った世界が見えるようにとあなたに与えられている。それならば、いったい何が正当なものとされるのだろうか。あなたは何を望むだろうか。この二つの質問は同じものである。そして、あなたがこの二つを同じものと見るとき、あなたの選択は下されている。なぜなら、それらをひとつと見なすことによって、二つの見方があるという信念からの解放がもたらされるからである。この世界は、あなたの平安のために多くを提供でき、あなた自身の赦しを延長させるための機会にあふれている。平安と赦しが降りてきて光を差し出してくれることを望む者たちにとっては、この世界の目的とはそうしたものである。[T−25.Ⅲ.7]
( 2021年6月 by カラコル )

