感謝そのもの、喜びそのもの

これは決して楽なことではないですが、正直に色々と認めようとするなら、必ず助けられるということを、先日改めて実感しました。

改めて感謝の念が噴き出してくるような感覚です。

実は、神に呼びかけたのは、人生初めてです。
ワークブックのレッスンを通じてやったことはありますが、いまだかつて自分から神に呼びかけたことは、ありませんでした。

神は感謝そのもの 喜びそのもの という気がします。
そして、兄弟も、感謝そのもの 喜びそのもの という気もしてきます。私とは感謝である、という感じもします。

神は祈りの対象であり、兄弟は赦しの対象ですが、祈りも赦しも内容は同じであるような気がしてきます。兄弟に具体的なことを求めることも、神に具体的なことを求めることも、同じことだと感じます。兄弟を信頼することも、神を信頼することも、同じことだと感じます。だから、赦しのステップ1と赦しのステップ2が同じものとしてあるような気もしています。

赦しのステップ1は、兄弟との関係、私の見ていた兄弟の姿は私が見たいと望んだ姿に過ぎないと気付こうとすること、自分が被せた兄弟の姿を越えて見たいと思うこと、ステップ2は、神との関係、神に対する恐れは私が望んだものだと気付こうとすること、自分が神に被せた神への恐れを越えて見たいと思うこと、でもあると思っています。

なんだかこのステップ 1とステップ2が、同じものとしてあるような気がします。そして、その感覚を恐れてもいます。しかし、恐れの裏に、大きな喜びが待ち構えているようにも感じます。とても恐れているはずなのですが、不思議と圧倒されはしません。恐れを感じるときには、必ず助けも感じるからです。助けを感じると、必然的に感謝と喜びが湧いてきます。

だからこそ、私は恐れを感じることを避けているのだと思います。助けを感じたくないので、恐れを感じることから逃げている。恐れを感じることから逃げるのは、助けを感じたくないから、感謝を喜びを感じたくないから、兄弟を神を理解することへと通じる道を塞ぎたいから。そう思います。だから、絶対に赦したくないという思いが、私の中にあるのです。それをもっとしっかり見つめていきたい。

そう思うと、また感謝の念が湧いてきます。

( 2022年8月 by pallaksch)