「交換」ということについて

「交換」ということについて、一日を通して、考えていました。

そんな中、実践的な理解というか、心を見ていて感じることがありましたので、書いてみます。

このところ、本当に、自我の塊みたいな激しい抵抗の中で過ごしていて、特に夫への裁きの念をどうしても手放せずにいました。

本当に、ひどい抵抗の中にいたように思います。

それで、今朝になってようやく、心を見ることができました。

驚きました。

「夫は、いつも私の邪魔をする。彼さえいなければ私は自由になれるのに」と、目の上のたんこぶのように彼を煩わしいと思っていて、彼は私の行く手を阻む敵というか、邪魔者だと思っているのです。それで、はたと気が付いたのは、「これは、神への思いなのではないか?」ということです。

私は夫との関係に、私と神との関係を投影しているんだ!!と気が付き、ハッとしたのです。

それで思ったのは「すべての関係は、私と神との関係の投影なんだ。」ということは、、、、。
(以前、私の書いた文章を再掲しますが)

・「交換」とは、、、、、、。

私が聖霊とつながって、聖霊の想念で相手を見るとき(つまり、相手と心でつながったとき・・・聖霊と自分がつながることで、必然的にすべてと心でつながっているときには、つまり、)相手も聖霊とつながっているということだから(そうかな??自信がないのですが・・・・。)相手も、聖霊の想念を反映することになるので、私が、聖霊の想念を相手に与えて、

相手からも聖霊の想念を受け取る。

これが「交換」(与える=受け取る)(つながれば必然的に与える((想念は延長される)))。
つながれば、心のレベルでは相手も聖霊とつながるので(そうかな?自信ない・・・。)相手からも想念が反映される。

お互いに正しい心が強化され、与える者と受け取る者の両方により多くの愛をもたらす、ということになるのかな・・・と感じられました。

このように書いたけれど、つながる、ということも「私と神」との関係の反映であり、
つながらないことも、また「私と神」との関係の投影であり、「神と私の関係」がすべてなのだと感じられます。

与える・・・・・・・と言うとき、私が与えることはできないと思ったのです。
与えるのは、聖霊で、私はその器になるだけ。

聖霊の器になることを自分が望み、私を通して、与えてもらう。

何かこのあたりが理解の糸口になるような感じがしています。

(2023年6月by maru)