真のアイデンティティーに向かって
病気とは、あなたが傷つくことが可能だということを実証する一つの方法である。[T-8.VIII.6:1]
気候の移り変わりが影響して、、というのはこの世界での原因ですが、先月から持病の症状を感じていたので、その時にできる自分に親切な対応と、自分が肉体ではなく「霊」であることを知りたいという方へと意欲を向けて過ごしていました。
現状としては、可もなく不可もない日々を過ごしていましたが、それでも、自分(心)が少しでも癒される方へ向かっているのならそうであってほしいという思いで過ごしていました。
でも、どうも赦しをうまくできていないような気がして、何かを見落としているような感覚がありました。
「快適な気候」や「健康的な肉体」との特別な関係を見ていて、それを手放すのは本当に難しいと痛感します。
一昨日の夜も、気分が悪くなってトイレに行ったら、色々あって(多分ほんの少しの時間)意識を失っていました。意識を取り戻した後、手足の筋肉も硬直気味でフラフラしながら近くの部屋のソファーに倒れ込んでいました。そうすることが精一杯でした。
息苦しさを感じながら上記のテキストの一節を思い出していました。
「私は自分に、脆弱な存在だと教えているのかな・・。私は肉体ではない。私は霊である。なんて、言葉では本当に簡単に言えることだけど、幻想とは思えないこの苦しみを取り除いてほしいという事を今は考えている。でも、聖霊の機能は世界を変えることではないのだから、体調がいいか悪いかが問題なのではない・・で、祈りってどうするんだっけ?」
と思っていました。とりあえず、
「私は神の祝福の中で不変であり、私の神聖さは今も何も変わっていないのだから、恐れる必要はないはず・・その事を信じよう」
と朦朧とする中で、戦場を超えたところからこの苦しみを眺めてみるなら、どのように解釈できるのだろう・・と考えていました。そのように聖霊の光を求めながら過ごしていると、ゆっくりと本当に少しづつですが落ち着いていきました。
翌朝、状態は落ち着いていましたが、いろいろ大変だったので病院に行って、持病の簡単な検査&その他の検査を受けて帰ってきました。
意識を失った時に壁に顔をぶつけたらしく、頬に擦り傷もできているし、首も痛いし・・( ; ; )クスン
この出来事を整理するために書き出しながら、「敗北感」を感じていることに気が付きました。
この「敗北感」を、最初は隠していたいという気持ちがあったので、フォーラムに投稿することも迷いました。
ですが、この「敗北感」こそが、自我の戦略の一部だということ、神(他者)とは違った存在でありたいという「特別性」には欠かせない「勝利感」に伴う恥辱・・。
この感情を認めて思考の逆転を試みようとすることが、神の子の選択の力を思い出すことへの分岐点になると思えました。
そう思うと、もう一度選び直したいという意欲が増して力が戻ってくるような気持ちになりました。
これは、私たちが自分の中で自分自身についてやるせない気持ちを感じているときに、自分の外で、何か自分を良い気持ちにしてくれることをすることによって、それを埋め合わせようとする試みです。「テキスト」の最後の方に、「あなた自身の外を探してはならない」(T29.VII)という、非常に美しく、力強いセクションがあります。私たちは自分の外を探しているときは、常に、偶像を探しています。『講座』では、偶像とは、神の代替と定義されています。本当は、神のみが、この必要を満たすことができるのです。
『奇跡講座入門』p.104
紹介されていたテキスト箇所の印象的だった段落です。
肉体の改善が主要な利益とされているようなゴールを目指しているときはいつでも、あなたは自分の死をもたらそうとしているのである。なぜなら、あなたは自分から何かが欠如することがあり得ると信じており、欠如とはすなわち死だからである。犠牲にするとは放棄することであり、したがって、それなしでいることであり、損失を被ったということである。そして、この放棄によって、生命が拒絶される。自分の外を探すのはやめなさい。そうした探索が示唆しているのは、あなたは内側において全一ではなく、自らの悲惨な状態を見ることを恐れていて、自分の本性を自分自身の外側に探すほうがよいと思っている、ということである。[T-29.VII.4]
読んでいて、じんわりと涙が滲みました。
自分のやるせなさと、癒されるような安堵感の両方を味わっているような気持ちです。
あの夜の出来事は、まさに世界に注意が釘付けにされる出来事だったのだと、少し遠くに感じられるような感覚になりました。
しかも、少し楽しんでいるような悪趣味な感覚さえ感じます。
また、愛の欠如は「欠乏」でもあるけど、イコール「死」を意味するのかと、ズンとくるような、納得するような、、、。
「快適な気候」や「健康的な肉体」が、私の平安を満たしてくれると信じている誤った信念であることや偶像であるということを認めるのは、私にとってまだまだ難しいことですが、一つひとつを聖霊に差し出し、本当は神との一体性だけが真実であり、必要を満たしてくれることであり、自分が何者か、生命とは何かを教えてくれることなのだということをもっと知りたいと思いました。
この赦しの機会に感謝して、真のアイデンティティーに向かって正直に丁寧に祈っていきたいと思いました。
(2023年11月 by シャンティ)

