猛烈な抵抗
昨日はものすごい抵抗にあっていた。
猛烈な自分責め&他者責め。赦したいとは思うが、赦しってどうやるんだったっけ?状態。
「自分の赦しは間違っている」というような『奇跡講座』からも責められているような知覚になり「もう、こんな面倒な『奇跡講座』はやめよう!」という考えまで浮かんでいた。
(書いていてあらためて思ったけど、自我の策略ってすごい!)
今朝はほんの短い夢だったけれど、久しぶりに強烈な悪夢を見た。凶暴な自分&神への恐れの夢だと思った。
罪悪感がまだまだこんなにも隠されている!幻滅&嫌気(笑)
でも、あ、昨日はこの罪悪感を投影していたんだと自覚でき、あの辛さはさらに深い罪悪感を見る準備ができたからだったんだ、夢によってそれが表面化してくれたのだから、それを見れば良いだけだ(これは良いこと)と思えてきて、だんだん落ち着いてきた。
そして、『奇跡講座』をやめたいのなら、離れて休養を取ることも有りで、また戻りたくなったら戻れば良いだけの話。そこに罪はない。それがその時の私のプログラムなのであり、休みながらゆっくり進めば良いのだと思った。
抵抗が出てきたときは、聖霊を信頼してそのままの自分でいるしかないのですが、それがとても辛いし、どうしても自我と闘ってしまいます。
赦しができない自分を咎め、咎めることにも罪悪感を感じ、自分は間違っているという声に痛めつけられる。
間違っているのは、その考えに導く思考体系を選んでいることなのですが、知的には分かるが、そこから動けない。
本当は恐れている自我を理解することなのですが、自分はやりたくないので、自分だけではそれはできないのですよね。
締め技で視野が狭まり、永久にそれが続くと思っちゃうのですが、この状態がずっと続くわけではない。
そこに耐えること自体もレッスンなのかもしれない(敢えて苦しむのは避けるべきです)。
愛を恐れ、障壁を自分で選んでいるが、「今はそれでも良い」「これが今日のレッスンなのかも」と思えれば良いのかもしれない。
そこにいる時にはまったく気が付けないのですが、通過した後に、聖霊への信頼が増したり自分への優しさを学び、どうして赦しができなかったのか理解されたりします。また自分の病の深さを理解しないと、進んで自分を癒そうとは思えないですよね。傲慢にもならずに済む感じがします。
何度書いても~(>_<。)\渦中の中では忘れてしまいますが、どんな状況の時にも「咎めずに、待つこと」=聖霊を信頼すること、それだけは思い出したいです。
「私が○○しよう」「学んだことを忘れないようにしよう」というのも、逆説的なのですが、それが苦しみになったり邪魔をすることもあるな、と時々思います。頼りにするのは、いつも自分ではなく聖霊であり、そのプロセスを信じることなのだと思います。
分離という私たちの共有の誤まりが個人としての私たちにおいて顕現されている具体的な形のすべてを、聖霊が私たちのために訂正してくれる、という意味です。このカリキュラムを計画するのは私たち自身ではありません。本当のところ、私たちはこの計画が何であるかさえも理解していないのです。そして明らかに、私たちが自分で自分にその中を通過させるわけでもありません。『奇跡講座入門』 p. 177-178
私たちが進歩して行き、毎日の学びのすべてを実践していくにつれ、起こっている奇跡や変化のすべては、自分自身が行っているものではないということを私たちは認識し始めます。私たちがこのプロセスを進むのを助けてくれている存在が、確かにいるのです。『奇跡講座入門』 p. 179
私たちは慎重に導かれているのです。私たち一人一人の〈贖罪〉の計画は非常に周到に用意されています。『奇跡講座入門』 p. 177
(2025年2月 by st55)

