一歩踏み込んで観察する意欲

先日、体調を崩し、痛みと苦しみを感じました。

これまでなら、この肉体的感覚が自我による肉体への執着という考えで終え、それ以上は見つめようとはしませんでしたが、今回はこの考えに違和感があり、その奥に見なくてはならない感情があるのかもしれないと、もう一歩踏み込んで観察してみようと意欲を持って観察を試みました。

まずは、この肉体的苦痛から、自分が『恐れている』ということを受け入れて、それから、何を恐れているのかを見つめてみました。

死への恐怖というよりも、むしろ「肉体として存在していることへの恐れ」が感じられました。

この表現が、感じている恐れにぴたりと合い、少し驚きつつも深く納得していました。

痛みや苦しみが日々薄れていく中で、その恐怖も徐々に過ぎ去っています。

「あぁ、ご飯が食べられるようになってよかった(肉体が維持できる)」
「肉体の回復に向かっていてよかった(快適な肉体ライフが送れる)」と、自我の「喜び」に慰めを感じつつ、肉体の脆弱性から感じる落ち込みや、このまま肉体の不調が継続するのであれば、さらに日常(時間)が奪われるかもしれないという不安感からの一時的な解放にホッとしています。

「肉体として存在していることへの恐れ」に気づいた時は、神との分離を信じて、個別の存在になると決断した(心としての)自分自身の考え自体を恐れているような葛藤や苦しみ、虚しさに触れたような気がしましたが、今そのことについて掘り下げたとしても、理論的な分析や探究で納得してしまいそうです。

今は、体調も心も落ち着いていて、穏やかに過ごせているので、この時を利用して、「恐れ」自体への知覚の訂正と正しい自己認識について、聖霊の導きにさらに耳を傾けたいと思います。

聖霊は、あなたに痛みをもたらす苦しみの形にかかわりなく、解放についてのこの包括的なレッスンを、それが学ばれるまで繰り返す。あなたがどのような傷をもってこようと、聖霊はこの極めて単純な真理をもって答えるだろう。なぜなら、この一なる答えが、あらゆる形の悲しみや苦しみの原因を取り去ってくれるからである。[T-27.VIII.11:2-4]

(2024年5月 by シャンティ)