赦したい?赦したくない?

今日は、「V#11: 薪を割り、水を汲む」を見ました。

このビデオは見るたびに印象に残る箇所が違ってくるのですが、今回は、以下の箇所にハッとしました。

自分の抵抗、つまり、自分がどれほど 「赦したくない、裁きを手放したくない」

と 思っているかを、自覚しなければなりません。

V#11: 薪を割り、水を汲む

いつも自分では、「赦したい」「裁きを手放したい」と願っているつもりなので、

正直なところ、これを頭で理解することはできても、実感するのは難しいな・・・と思いました。

しかし、

「赦したい」「裁きを手放したい」という気持ちが、普通以上に強い場合は、反動形成ということもあり得る・・・ということなのだから、

逆に、自分が「赦さなくては・・」とか「裁きを手放さなくては・・」と思っていることが

はっきりと意識されたような時には、その逆の想いがその奥に潜んでいる可能性もある

ということを思い出し、自分の心を注視するのも一手かな・・・とも思いました。

それと、次の箇所は、コースについての様々な解説書を読む際の

チェックポイントになるような気がしました。

人々が陥りがちな、霊的体験にまつわる 自惚れや驕りなどを避けなければなりません。

「昨日、イエスが私にこう言ったのです」 とか、

「啓示体験があって、神が私に語りかけました」など、枚挙にいとまがありません。

これは、必ずしも、そうした体験が無意味だとか 本物でないとかいう意味ではありませんが、

そうしたことは、霊的な学びの旅路においては、 本当に、挫折をもたらすものにもなり得るし、

人々を脱線させることがあり得ます。

V#11: 薪を割り、水を汲む