自分はダメな人間

ふと、小冊子「原因についてのコース」の以下の記述が思い浮かんだ。

ですから、「心の平安」というのは、周囲の状況には全く左右されない平安ということなのですが、だからと言って、決して、辛い状況とか不愉快な出来事を黙って耐え忍ぶというようなことではありませんし、(以下略)

「原因についてのコース」P83

また、奇しくもほぼ同時期に、全然関係のない二人の方が、「人生、時には逃げるのも大事、もし逃げ遅れて自分の身体を壊したりしたら本末転倒だ、逃げるのはポジティブなことだ」という趣旨の発言をされているのを目の当たりにした。

確かにその通りだと思う。『奇跡講座』では「私たちは肉体ではない」が、あくまでそれは(ワプニック博士の言われる)レベル1の観点からの話であって、実際に肉体だと信じているレベル2の観点からは、自分をいたわり、やさしく接するのが一番だと思う。

さらに、JACIM本館の質問No.112の回答の最後の段落も思い浮かんだ。

聖霊から流れ出る愛へと通じる道が開かれるのは、裁くことなく投影が自覚されて、その愛を邪魔しようとするものが何もなくなるときです。

自我が作り出した全てが神に対する攻撃なのですから、あなたを動揺させる状況や人物をわざわざ探し出す必要はないのです。険悪な人間関係から距離を置くことは、何ら悪いことではありません。偶像の場合と同じく、もし一つの関係が手にあまるように思えたときには、「別の形態を見つけることは可能である」(W-pI.170.8:7)からです。赦しの教室においては、あらゆるものごととあらゆる人が、等しく重要です。それらは、すべての裁きが脇に置かれて聖霊の愛が間断なく流れるようになるまでの間、愛の纏う形態にほかなりません。

【質問】No.112
<特別な関係>の本質が「憎悪」だというのなら、愛は不可能ではないのか

肉体をまとった人間として生きている(と信じている)以上、人間関係であれ、仕事との関係であれ、どうしても「相性」の良し悪しがあるのは避けられない。自分にとって極度に相性の悪い場で、「黙って耐え忍ぶ」必要はないし、その関係が手に余るようであれば「別の形態」を見つけてもいい。このことは一般的に言われる意味での「逃げること」とは違うと思う。いわば、「前向きな撤退」だ。

話は飛躍するが、小冊子「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」で引用されている、テキストの文言に心を打たれた。

あなたは、自分は神の国をもっていないと信じてきた。それゆえに、自分の信念の中で、自分自身をそこから除外してきた。したがって、何としてもあなたに教えなければならないことは、あなたがそこに含まれるべきだということ、そして、除外すべきものとは、自分がそこに含まれていないという信念だけだということである。(T-6.Ⅴ-C.6:4-5)

聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説 P154

私は少年時代から、ずっと「自分はダメな人間だ」と思い込んできた。この固定観念はあまりに根深く私の思考体系に食い込んでいるので、その固定観念を抜き去るのは容易ではない。

しかし、『奇跡講座』は、「私は神が創造したままの私である」(レッスン94)とか、「あなたは神の子供であり、神の国のかけがえのない一部分であり、神がご自身の一部として創造したものである。」(T-6.Ⅳ.6:1)とか、「私は世の光である」(レッスン61)とか、枚挙にいとまがない。つまり、「自分はダメな人間」という私の思考体系の真逆の文言ばかりである。

ここで再び小冊子「原因についてのコース」に戻るが、

この最後の文、「あなたは自分が正しいことと、幸福であることの、どちらを好むだろうか」というのは、皆さんもすでに、よくご存知の文だと思いますが、これは本当に大切です。
「自分が正しいと主張し続けることは、こんなにも苦しい」ということを実感して、「もう自分が正しくなくていい。ただ、幸福でいたい」と本気で思えるようになったら、大きなシフトが訪れます。

「原因についてのコース」P63

私は「自分はダメな人間」という思考体系にしがみついている。そういう自分が「正しい」と思っているのだ。『奇跡講座』を今まで学んできて、表層意識では自分の考えは「間違っている」と思うようにはなった。でも、心の奥底では、「いや、確かに自分はダメな人間だ」という固定観念にまだまだしがみついているのだと思う。なぜなら、そう思うことで、「私」という「自我」の存在が確保されるからだ。

自分を傷めつけるのはいい加減もう止めよう。
そろそろ舵を切る時だ。

自分にやさしく、かと言って甘やかすでもなく、顔を上げて、胸を張って、『奇跡講座』受講生として、この道をこれからも歩んで行きたい、と強く思った。

(2020年12月 by DTA1973)