満足するとは?
昨日、心を見ていました。
不意に浮かんできました。
「では、どうしたら、私は満足するのだろうか」
「完璧な健康が手に入ったら?痛いところがなく、羽が生えたように軽やかに、消化吸収が停滞しないで、しなやかな筋肉があり、、、、、、、、完璧な健康であったなら?、、、、、それは、ずっと永続するだろうか?それがあれば、私は幸せだろうか?」
「働かなくても良ければ?働かなくても十分に生活できるとしたら?毎日、好きなことだけして、それでも生活に困らなければ?それは幸せだろうか?それで満足するだろうか」
「夫が、もっと穏やかで、爆発的に怒りをぶちまけない人だったら?歯をかみしめて、握りこぶしを震わせるあのしぐさを見せない人だったら?私は幸せだろうか?満足して暮らすのだろうか」
どれも、これも、答えはもちろん「否」でした。
そのすべてが、手に入ったとしても、「否」でした。
そして、次にこんな考えが浮かんできました。
当面は満足することもあるかもしれない。でも、、、、、。
「何だか、当面の満足を手に入れることって、決断の主体から離れる、っていうことみたいだなあ、、」
「当面の満足を手に入れることは、決断の主体の私からますます離れることを意味するみたいだなあ。」
「では、満足しない方が良いってこと?モヤモヤを感じている自我の私の方が、満足している自我の私よりも、決断の主体の私との距離が近いってこと???」
「それも違う気がする、、、、。満足しているように見える状態の時に、満足していない、空虚感がある、ということに気が付かないで、または気が付かないふりをして、隠蔽するならば、、、、、、、つまり、自分の心を見ないことをするならば、モヤモヤとした欠乏状態の方が、隠蔽しないだけまし、ということかもしれない」
「やはり、心を見る。自分が何を感じているのか、心がどの矛先に、どんなふうな感情を向けているのか、自分の心がどんなふうに動いているのか、自分がどんな感情を抱いているのか。それを隠蔽しないこと。それが、まず、大事なんだなあ」と改めて思いました。
自分が本当に感じているはずの、空虚感、切なさ、やりきれなさ、それを感じていないふりをする、見ないふりをし続けるのでは、何というか、突破口が無いように思います。
それはただ、神の元へ帰るまでのただ、遠回りとか、道草とか、立ち止まりとか、そういうことなのかなあ。
自分の気持ち。何をしても満たされない空虚感を自分が抱いているということを自分で認めるとき、決断の主体の私に触れているのではないかなあ、、、、と思いました。
この点は、何回でも何回でも、自分の中で確かめたいポイントで、これからも、何回でも自分の気が済むまで、確かめたいのです。
( 2022年7月 by maru)

