聖性の反映

私が「聖性の反映(第2回)」を読んでビビッと来たのは、以下の部分

神、イエス、光などにまつわる私たちの内的体験があまりに感動的なものになりえるため、「自我の取り消しには〈赦し〉という毎日の作業が不可欠だ」という考えを覆い隠してしまうからです。

この部分です。私が今回の連載がアップされて初めて読んだ時から、ずっと気になっていた部分です。と言うのも、まるで私のことを言われているような気がしたからです。

私は『奇跡講座』のテキストやワークなどの本文を読んだりすると、かなりの頻度で、えも言われぬ気持ちよさ、恍惚感、心にジワーッと火がともる感じ、に満たされます。まるで、音楽を聴いている際の何とも言えない気持ちよさに酷似している感覚です。これはまさに、再掲しますが

神、イエス、光などにまつわる私たちの内的体験があまりに感動的なものになりえるため

ということなのではないか。そしてもし、そうだとするならば、

「自我の取り消しには〈赦し〉という毎日の作業が不可欠だ」という考えを覆い隠してしまうからです。

つまり、〈赦し〉という『奇跡講座』の根幹の教えをすっ飛ばしてしまう。

イエス先生の芸術的な感動的な言い回しに酔うのも大いに結構、それを「内的状況の外的映像」として、すなわち〈正しい心の反映〉として捉える限りは。

しかし、私たちは、真に故郷に帰りたい、選び直したい、この世という地獄から脱出したいと思うならば、私たちの誰もが存在論的に抱いている「憎悪」や「恐れ」を直視しないといけない。(ここで、以前の連載
目覚めのプロセス~自分の憎悪を直視する~」から一部引用します)

〈間違った心〉の無意識の部分が意識化されなければならないという考え方は、『奇跡講座』の教義に内在している本質的な部分です。

ワプニック博士の『奇跡講座』解説 小品集(2)P103

この「憎悪を手放す」ということは、癒しのプロセスの最初のステップですが、それが可能になるためには、まず私たちが憎悪に気づくことをしなければなりません。

ワプニック博士の『奇跡講座』解説 小品集(2)P104

イエスがヘレンを通して、ヘレン自身とビルに与えたお互いの間の関係についてのこれらのメッセージは、自分の自我の憎悪を直視することがいかに重要であるかという点に光を当てています。それは、恐れの中に入っていく旅路のように見えますが、本当のところは、私たちの真の在り方である愛へと目覚めていく旅路なのです。否認という力動ゆえに、私たちは、単純に、憎悪の中毒性に全く気づいていません。それは、私たちの心を汚染し、自分が不当に扱われているという妄想を強化します。それは、私たちが他者に対する自分の憎悪や攻撃を正当化するために使用する〈間違った知覚〉です。

ワプニック博士の『奇跡講座』解説 小品集(2)P106

ということなのだと思いました。

話はまたまた飛んで恐縮ですが、私たちの多くが、「肉体としての自己」の欲求が満たされることを望んでいる。個としての自己を満足させ最大化させることが生きる目的だと思いがちだ。たとえば私を例にすれば、仕事、対人関係、食べ物、趣味、これらが全て順調に流れていれば「嬉しい」し、少しでもリズムが狂い不協和音になると途端に不機嫌になる。

しかし、『奇跡講座』受講生として、いずれはこういう、自我としての自己認識からも少しずつ脱して行き、いつかは、十字架の上でも心の平安を保ち続けたイエス先生のように、どんな状況下にあっても、優しく微笑みを浮かべた生き方を身に付けたいな、と思いました。

(2022年6月 by DTA1973)