愛に対する恐れ
『奇跡講座入門』の86-87ページに以下のように書かれています。
自我は、罪悪感のない状態に直面したときにはいつでも、それを攻撃します。なぜなら、自我の思考体系に対する最大の罪は、罪悪感をもたないことだからです。あなたに罪悪感がなければ、罪もないことになり、さらに、あなたに罪がなければ、自我は存在しないことになります。「テキスト」の中にこういう文があります。「自我にとっては、罪悪感がない者が有罪である」(T-13.II.4:2)。というのも、罪悪感をもたないということは、「汝、有罪であるべし」という自我の戒律を破って罪を犯すことだからです。あなたに罪悪感がないとしたら、あなたは「罪悪感がないという罪」を犯していることになります。イエスは、私たちに罪はないと教えていました。だから、自我は彼を殺さなければならなかったのです。彼は自我に対する冒涜行為をしていたことになるからです。
この部分は、読んでいてモヤモヤ感が激しくなることがあります。
せっかく分離(罪)の夢の中に逃げ込んだと思っているのに、その外側から侵入してくるものがいるとは許せない、そんなものが存在してはならない、という感じでしょうか・・・。私の心にもそういう思いがあるのがはっきりわかります・・・。だから、恐れがモクモクのぼってくるのだと思います。
今回の範囲で言及されていた「罪悪の魅力」の冒頭部分も、同じような恐れを私に引き起こすことがあります。
罪悪の魅力は、愛に対する恐れを生み出す。なぜなら、愛は罪悪にまったく目を向けることがないからである。
(T-19IV.A.10:1)
愛は罪悪にまったく目をむけない。こっちは、分離した(罪を犯した)という経験をしていると思っているのに、愛はそんなことに気付くことなどしないわけです(愛は愛だけを知る)・・・・。こっちは必死になってるつもりでも、愛はまったく気付くことなどしないわけで、そんな思い(想念)など実在しない、つまり、分離したあなたなんて実在しないということになるわけです。結局、そのことが救いとなるわけなのですが、分離していたい、個別の自分でいたいという思いがあるので、恐れを感じてしまうわけです。
恐れること=見ないこと、なので、自分が恐れているのを見ること=恐れに力を与えないこと、となると思いますので、ゆっくり落ち着いて自分の恐れを自覚していきたいと思っています。
(2023年2月 by pallaksch)

