見たくない世界

義母の一回忌からずっと恐れが私に付き纏っている。

ご無沙汰だった、コースを投げ出したくなるような抵抗である。

そんな苦しみの中で初めてわかることがある。

コースの復習をしていたら、否認こそが防衛であるという一節を見つけた。

というのは、この防衛は「否認」なのですが、否認されたものは必ず投影されますから、投影されたものに注意を払えば、いずれは、否認されていたものの源まで戻っていけるのです。

JQA #31: 神の愛への恐れ

私は防衛という言葉がいまいち理解できていなかった。

「否認=防衛=見たくないもの」だと思った、そして見たくないものを見ることが赦しの第一歩であると書かれていた。

見たくないものとは何だろうか?

最近朝起きてまず感じるのは「死にてえなぁ」という自己憎悪だった。

自己憎悪から始まる夢の世界を観察してみた。
よくよく見ると私が見たいものなどこの世界には一つもないことに気づいた。

私が構築した「特別な愛の関係」は全て、この見たくない世界から目を逸らし、私の自己憎悪を忘れさせてくれるものだった。

仕事終わりや休日に感じる喜び、
それが解放感であることに気づく。

何から解放されたというのだろうか?

仕事で私は自己の欠乏感を義務や責任で抑圧して働いている。

仕事終わりや休日にその抑圧を解放して、
私は欠乏を満たそうと「特別な愛の関係」を求める。

しかしそれは真の問題解決にはならず、
同じことを繰り返しながら私の肉体はいつか消滅する。

こんな無益なことはもうやめたいと思った。

それを願うならば、

見たくないものを見る。
見たくない世界を教室とする。

これが私の生きる道なんだと思った。

なんとも細く険しい道のりのように見えるが、
聖霊というガイドの手を取って、
一歩ずつ進んでいこうと思った。

(2024年3月 by ようすけ)