研修会から見えてきた、恐れの源
先日仕事に関係する資格更新のために丸一日の研修会に参加して来た。基本的に一日講義をただ聞いてさえいれば、自動的に資格を更新して貰えると言う類の退屈な研修会…の筈だった。前日が寝不足だったこともあり、案の定受講中は眠気との戦いであったが、あと残り三分の一という段になって、突然司会者が現在研修会の在り方の改革中であり、残りの時間は試験的にこれから具体的な症例を3つ提示するので、その対応について各自で考えて貰い、それをこの場で発表して貰うとアナウンスして来た。300名強の受講者がいる会場だったが、司会者がアットランダムに個々の症例につき複数名の発表者を指名すると言う。
(ひょえー(;’∀’)、当たったらどうしよう⁈)眠気が一気に引いて、突然動悸がし始めた。
何人当てるか分からないが、3症例で各最大10名づつとしたら、確率としては1割未満という低いところか、などと頭で算段しながらも、それでも絶対当たらないとは限らない。うわぁー、何かこの嫌な緊張感を久しぶりに味わうなと思いながら、同時に遥か昔、私が小6の時に受けた中学受験のグループ面接での嫌な記憶を思い出していた。
当時身の丈に合わない中学受験などをして、そのグループ面接の際に「あなたの尊敬する人は誰?」という質問に対して、何の気の利いた答えも思い浮かばず、他の受験生らが次々と立派な回答をするのを横で聞きながら、焦りに焦って、結局隣の受験生が言っていた「父親です」という回答を、(そんなこと思ってもいないのに)そのまま二番煎じした陳腐な回答しか出来なかったという、あの苦い記憶がありありと蘇って来た。
来年でいよいよもう還暦を迎えようとしているのに、私はあの10代前半の頃と同じところでまだ躓いているのだということを痛感した。そして、この感情の下に一体何を隠しているのか、今度こそきちんとみてみようと思った。
私は、あの当時もそして今でも一体何をこんなに恐れているのだろうか? 下手な回答をして周りから無能だと思われたくない。そう、自分は誰よりも有能だと思っていたいし、周りからもそう思われたい。しかしその下には、実は自分の無能さを何処かで自覚していて、それがいつか露見してしまうのではないかという事を、私は何よりも恐れているのだと思った。
神よりも有能な自分を実現させるために神からの分離を自ら選んだのだが、そのような存在であると信じている私は如何に不完全でポンコツであるかも何処かで知っているのであり、それを露呈させないように必死に防衛していることがよく分かった。しかし、これらは全て私の自我の作り事なのだ。私は神とは決して分離などしていないのだ。自分が如何に間違ったことを信じて怯えていたのかということをしっかりと自覚して、この全てを聖霊と共に笑い飛ばして貰おうと決意した。これこそが奇跡なのだ。
奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。[W-pⅡ.13.1:1-3]
そんなこんなを考えている内に、研修会は無事に終了していた。結果として、私にとってある意味とても有意義な研修会になったことを喜んでいる。
( 2023年2月 by クマ )

