「心の決断」を見るということ

私たちが心の罪悪感を投影する必要は凄まじく、この世界に様々な違いを見ては、ありとあらゆるものに投影しているように思います。

ところが、そのことに敏感で、それが嫌で、それを無意識に自分で止めてしまう傾向の人が結構いるように思います。
私もその傾向が以前は強く、その結果、定期的に引きこもりたくなることがよくありました。

世界が色褪せて感じられ、何をする気にもなりませんし、何にも関心を持てないし、身体的にも調子も良くなく、それこそ罪悪感の雲に閉じ込められたようで、ただ苦しいだけという感覚です。

心の罪悪感をこの世界の自分以外の何かではなく、この世界の住人としての自分に強く投影してしまうのだと思います。

しかし、この世界の自分への投影を逆転するというのは、難しい側面がけっこうあるように思います。

投影を逆転する方向へいっているのか、投影を強化する方向へいっているのか、他者への投影と比べて、非常に分かりにくいように思うのです。

心の深くへと行くつもりが、無意識のうちに、この世界の自分への投影を単に強めていることをしている、ということが私はあったように思います。自分の心の決断を、この世界の自分の責任として見てしまうことが、よくあったように思います。

心の罪悪感をこの世界の自分以外の何かではなく、この世界の住人としての自分に強く投影してしまうようなとき、自分の心の決断を、自我を選んだことを、無意識に責めてしまうことが多かったように思います。それについて書いてみようと思います。

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心の決断というのは、この世界における「私」の感覚からすれば、非人称的な感覚のものであり、それを責めたりほめたりするような対象にはなり得ないように感じます。もちろん私が決断するのですが、その「私の決断」という「私」は、この世界の住人の「私」という感覚からすれば、「私がない」という感覚の「私」という感じがします。

しかし、「心の決断」は責めたりほめたりするような対象ではないからこそ、責任はそこにあり、「この世界の言動」は責めたりほめたりするような対象であるからこそ、責任はそこにはないのです。

「この世界の言動」という「責めたりほめたり」という相対的な評価の対象に、責任を見ることは、無意味なことです。責任というのは単なる因果関係です。因果関係は本来評価の対象にはならないと思います。

何を望み何がもたらされるかは心の決断にかかっています。すべてがそこから生じる。良いも悪いもなく、ただそれだけであり、そのすべてを望むか望まないか、ということです。自分は自我を選んだ。そこから苦痛がもたらされている。ただそれだけです。それは、単なる事実であり、単なる因果関係であり、「見るか見ないか」の対象です。

自分の心の選択を責めてしまうと、罪悪感を強化するだけでなく、心の選択の意味を歪めてしまう。「見るか見ないか」の対象である事実を、因果関係を、この世界での評価(責めたりほめたり)の対象にしてしまう。自分は自我を選んだ。そこから苦痛がもたらされている。それは単なる因果関係です。責任があるというのは、単なる論理的帰結だからです。

責任を認める=因果関係を明かす=事実を見る=心の選択を見る、です。責任を認めない=因果関係を明かさない=事実を見ない=心の選択を見ない、です。

ところが、この世界の住人の「私」の感覚で、心の選択というものを見てしまうと、この世界での評価の対象になってしまう。そこが厄介だと思います。

ここで言っている「評価」というのは、もちろん聖霊の評価とは根本的に違うものです。聖霊の評価は、一元的思考への適合可能性を見るだけであって、適合不可能なものはただ無意味と見るという視覚であって、この世界における「評価」とは隔絶しています。

無意識に自分の心の決断を責め、心の決断をこの世界での評価(責めたりほめたり)の対象としてしまうことが、なぜ厄介かと言うと、そうすることで、決断の主体というポジションから離れることになるからです。この私がすべきことは、ただ単に「見る」ことだけです。それができるように聖霊の手をとるだけです。

責任を認める=心の選択を見る=意識的に心の選択をする=決断の主体としてのポジションにつく

心の選択を見る=意識的に心の選択をする、というのが、わかりにくいかもしれませが、「見る」=光・聖霊を教師とする、「目を塞ぐ」=闇・自我を教師とする、ですので、心の選択を見る=意識的に心の選択をする、となるように思います。

( 2022年9月 by pallaksch )