祝福する機会
良く車の運転には、ドライバーの性格が出ると言うが、確かに運転中は潜在意識に隠れた想念が出て来やすいのかもしれないと思う。先日実家に車で帰省したのだが、高速を運転中に追越し車線を隣の走行車線の車と同じスピードで並行して走る車が前に出て来て、決して急いだ旅ではない筈なのに、少しイラッとしてしまう自分が居た。これは一体どういう事なのだろうと、運転しながら考えてみた。
先ず私が永遠ではなく、時間という感覚に囚われているのは確かだと感じた。永遠という真理を否定し、時間と言う概念を優先しているのは明らかだと思った。だからこれがもし一刻を争う帰省であれば、私は相当頭に来ている筈だと感じた。しかし、今回は決して時間に追われた急いだ旅では無かったので、これ以外にも何かありそうだと思った。
そして、そもそも追越し車線は、追越し用の車のためのものというルールなのに、私はそのルールを守っていないこの非常識なドライバーに、特に苛立ちを覚えているのだと思い至った。しかし、更に突き詰めれば、これはあくまでもこの幻想世界でのルールである。私は幻想世界のルールを心のレベルにおいても優先しているのだと思った。
兄弟が正気でない行動をするとき、彼はあなたに、彼を祝福する機会を差し出している。彼の必要はあなたの必要である。あなたが彼に差し出せる祝福を、あなた自身が必要としている。それを与える以外に、あなたがそれを所有する方法はない。これは神の法則であり、そこに例外はない。
(T-7.Ⅶ.2:1-5)
つまり、神の法則を守らずに、自我の法則を優先しているのは、他の誰でもない、正にこの私なのだ。この見たくない自分の姿を、あの非常識なドライバーに投影して、私は責任転嫁しているに過ぎないことが良く分かった。こういう事にもっと気がついて行きたいと思う。

