教えてくれる何か

私は、自分のことを肉体であると思っている。

それを当たり前のこととして、その前提ありきで、その前提のもとにすべてが進行していく。

自分が肉体であるということを、疑う余地のない固定されたこととして、そこから種々の出来事が展開されていく。

でも…

『聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説』には次のように書かれている。

神は永遠に不変ですから、破壊されうるもの、移り変わるもの、変化するものなどはすべて、神に属するものではなく、従って、実在していない、と説明されています。ですから、この論理に基づけば、肉体だけでなく、この世界とその中にあるものすべてが幻想ということになります。

『聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説』31ページ

というのであれば、私はそのことを教えてもらう必要がある、と思いました。

私は、今、自分のことを肉体であると認識している。そうではなく、心であるというのなら、それを私に教えてくれる何かが必要だと思いました。

参加しているフォーラムの二つの読書会を通じて「聖霊」についての理解が少し深まったように感じています。

「聖霊」は神の思考をそのまま受け継いでいて、私の心の中の存在で、神と私の架け橋である。それならば、「聖霊」は私が肉体ではなく、私が神の子であるということを知っているのだろう。また、私が自分のことを肉体である、と思っていることも知っているのだろう。

私が肉体でなく、心である、というのなら、それを知っている「聖霊」に教わる必要があるのではないだろうか。自分のことを肉体である、という覆せない前提からくるものの中に居るように思っている私のことをよく理解している存在に、教わる必要があるのではないだろうか。

教わるのであるから、私は教えてもらう生徒で、教えてくれる聖霊は教師、と言えるのではないだろうか。

そういう意味で、「聖霊」は、私が教わろうとするとき、「教師」になるのではないだろうか。

「聖霊」に教わろうとするならば、「聖霊」と通じるところに私が行く必要があるのだ、と思いました。聖霊の思考につながれるところに、私が移行しなければ、聖霊の思考を共有?できないのだと思いました。私が自我の思考をすることを選んでいる限りは、聖霊の思考との接点はないのだから。

私が、自我の思考体系でいることをやめて、〈正しい心〉を選べば、それが聖霊の思考体系で、それは神からの想念を受け取った想念であり、そこにつながることで、それを教えてもらえる。

聖霊の思考体系につながることは、神の想念に触れることだと思いました。

(2022年7月 by maru)