自我の拠り所

以前から、苦手だと思う人がいて、今までこっそりと、その人の存在を感じると胸の中で悪口を言っていた。

その人の悪口を言っている間は「たいしたことではない攻撃」として考えていたし、よろしくないと分かっていても、やめる気にならなかった。

「たいしたことではない攻撃」と言っても攻撃には変わりはなく、攻撃だと分かっていても止める気がないというのは、真の自己としての「その罪のすべてについてあなたを赦す力(T-24.II.7:1)」が失われていることを望んでいることで、その機能が堕落していくことを望んでいることになる。

先日、だんだん不毛だと感じるようになってきたので、その人への嫌悪は自分の罪悪感の投影であることを認識していくことにした。(やっとその気になった(^^; )

そして、今日、またその人の存在を感じることがあった・・・

だけど、そこには嫌悪ではなく、悪口を思う悦楽でもなく、泣きたいような、悲しいような、虚しいような、なんとも捉えどころのない不安定な気持ちを味わっていて、それはきっと、その人が何もしていないということを認め始めたからかもしれない、と感じた。

相手を嫌悪すること(罪)を拠り所としていたのは自我で、その拠り所をなくしたと思っているのは自我だ。私ではない。

私は、聖霊(愛)という拠り所を知っている。

聖霊に心を寄せていきたい。
選ぶ力を取り戻し、決断への意欲を捧げていこう。
救済者としての兄弟に感謝を捧げようと思いました。