熾烈な葛藤
テキストを最初から読み始めている。もう何回読んだか分からないが、自分のこれまでの体験に伴って、読んだ時に以前にないほど理解が深まるという経験をする。最近読んだ箇所からもそんな経験をした。
創造主はあなたが誤った創造をする能力に限界を設けたため、あたなは創造主から完全に離れ去ることはできない。幽閉された意思は、その極限のおいては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。苦痛に対する許容度は、高くなることはあっても限界のないものではない。いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道があるはずだと認識し始める。この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。これが究極的には霊的な心眼を再び目覚めさせ、同時に肉眼の視覚の重視を弱める。この二つのレベルの知覚が交互に重視されるとき、それは通常、葛藤として経験され、しかも、きわめて熾烈な葛藤となり得る。
T‐2.Ⅲ.3:3-9
私は先に、ワークブックの講義に参加していた2019年の終り頃より徐々に得体のしれない恐れに捕われるようになったと書いたが、この恐れは本当に強烈な経験であり、私は約1年間その理由が自覚できないまま苦しんだ。上記引用の最後の一文にある「熾烈な葛藤」というのは、あの時の私の経験を正に描写している言葉だと思った。
その先でテキストはこう続いていく。
あなたが恐れているとき、あなたはすでに誤った選択をしている。それゆえに、自分にその責任があると感じているのである。あなたは、自分の行動ではなく心を変えなければならない。そしてそれは、まさに意欲の問題である。
T-2.Ⅵ.3:2-4
あの時の恐れの原因は、私の心の誤った選択であり、恐れを手放せるか否かは、私が心の選択をし直すか否かという意欲だけの問題だったのである。
恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である。恐れからの解放を求めるとき、あなたはそれはそれが自分の責任でないはないとほのめかしている。そうする代わりに、あなたはその恐れをもたらした状況について助けを求めるべきである。これらの状況には常に、分離していたいという気持ちが伴っている。
T-2.Ⅵ.4:1-4
当時の私がやっていたことは、この前者の恐れからの解放を求めていたことであり、それは心に戻って選択し直すことを拒否し、正に分離した自我のままで居続けたいという私の隠された願望の現われ以外の何ものでも無かったということが、今は良く理解できる。私は心に戻るのではなく、あくまでもこの幻想世界での恐れの消失を望んでいたのである。あれ程強烈な恐れであったにもかかわらず、神の子の片鱗を思い出すきっかけを掴むまでに、あれ程の苦しみと時間を要したことに、心に戻ることへの私の抵抗が実はいかに激しいものであるのかということが、想像できるのである。
そしてこの抵抗は、私がこの形態の中に留まっていると認識している今でもなお、まだまだ多くが埋もれたままになっているということを物語っているのである。気づいていないということこそ、私の抵抗なのである。だからこそ、私が何よりもやって行きたいことは、これからもこの埋もれたままの抵抗に少しでも気づいて、これを明るみに出して行くことなのだ。気づくことで初めて聖霊に差し出すことができるのだ。この意欲をこれからも聖霊に差し出して行こう。
(2022年3月、by クマ)
