そこに留まる
「まだ目覚めたくない。夢を見続けていたい。嫌な夢が良い夢になって嬉しい。」
こういう思いは、私も含めて、罪悪感・恐れが心にある限り、誰にでも必ずあると思います。
そういう思いがあるのを認めて、自分はまだ愛を恐れているだけだ、と認めるだけでいいと思うのです。それで大丈夫なのです。むしろ、そこで留まれるかどうかが大切なことだと思っています。
最近、自分の思いを、つまり自我を尊重することの大切さをおりに触れて学んでいます。
自我はただ在るということができないと思うのです。何かをしていることしかできない。ただ見るということはできないように思います。
だから、ほんとうには「尊重する」ということは自我にはできないのです。自我の視点では、「思い」に対しては、獲得する(自己同一化する)か、殺害する(否定する・排除する)かのどちらかの要素がどこかに入ってくると思います。
「良い夢を見たい」という思いを「尊重する」のは、その思いに同一化したりその思いを否定したりすることとは、別の道を選ぶことです。
自分の中の思いを問題視するというのは、自我自体を問題にすることです。そのことによって自我の実在性がさらに強化されるように思うのです。
ほんとうに思いを尊重すると、自我の自分は消えてしまうと何処かでわかっているように思います。でも夢を見続けていたいのです。イエス先生のようにはなりたくないのです。だから自分の思いをなんとかしたいと思ってしまうんだと思います。
そうした思いを認めると楽になります。認めていくのは、けっこうキツイですが。そういう時こそ、聖霊の助けが必要です。思いをなんとかしたいと思いながらも、そこに留まる助けを聖霊に求めます。
答えはある。ただ自分が拒んでいるだけである。聖霊の手をとってそこに留まる。そこから逃れるために聖霊に助けを求めるのではなく、そこに留まれるように聖霊に助けを求める。ここのところそうしたレッスンによく遭遇します。
ただ愛を恐れているだけ。それを認めていく。
(2020年10月 by pallaksch)
