恐れや攻撃の想念を自覚する

先日の三連休にどうしようもない恐れが出てきて、赦しもできず疲弊していたのですが、「JACIM掲載の記事についてのフォーラム」の「質問 No.110 浮上してくる怒りや攻撃の想念について」のトピックでの皆様のやりとりが、自分が何処で行き詰まっているのか、気づくヒントになりました。

以下印象に残った箇所を抜粋します。

「何を問題だと見るか」は、「何を自分と見るか」と直結しています。個人として自分が感じる葛藤をどうにかしたいというところに留まるなら、個人としての自分から離れることはできません。そこから、様々な困難を、神の愛への恐れのあらわれと認識していくことが、自分は〈決断の主体〉であると認めていくことへ直結していくように思います。

日々の葛藤と「神の愛への恐れ」というのは、普通は断然があって、直結するものではないと思います。それが結びついていると自覚させてくれるのが、「抵抗」の自覚だと思います。

表面的な意識では赦したいと思っていても、赦したいという理由は個人的な葛藤を逃れたいという側面が強いので、そこに留まるなら赦しは不可能となります。

しかし、表面的な意識では赦したいと思っていても、実はその裏には赦しの実践などクソくらえ!と思っている自分、イエス先生の言うことなんか信じたくない!という自分がいることに気づくことで、日々の葛藤と「神の愛への恐れ」が実は直結していることに気づいていくことになります。

そして、自分の問題意識が、個人(世界)レベルから心のレベルへと向かい、赦しが可能となってくるのです。

赦しが行き詰まるときというのは、今感じている葛藤を直接どうにかしたい、でもうまくいかない、きっと何かここから抜け出す「方法」があるはずだ、というように、赦しの「やり方」のようなものに意識が行ってしまい、「ほんとうに自分は赦したいと思っているのか?」「ほんとうに贖罪を望んでいるのか?」というところを不問にしている場合が、けっこう多いように思います。

そこは、自分が一番見たくないところだからです。恐いのです。その恐さというのは、もちろん「神の愛への恐れ」からくるものです。「赦したくない自分」「罪の実在を望む自分」を発見することは、それを取り消す道が開けることだと、どこかでわかっているからです。

(2021年3月 pallaksch)

「日々の葛藤」と「神の愛への恐れ」は、自我の観点からは結びついておらず、それを結びつける鍵が「抵抗の自覚」であるという指摘にハッとしました。

そして、投影という力動を逆転させて、世界から心に戻らない限り、赦すことはできないと気付きました。

赦しが上手くいかない時は、世界のレベルで「赦しのやり方」に意識が囚われており、心に戻っていない。

私は連休の三日間、世界のレベルで「赦しのやり方」が上手くいかない、どうしたら上手く赦すことができるのだろうということに囚われ、世界から心に戻ることができていなかったのです。

動揺(怒り、罪悪感、渇望‥)を感じるとき、さも、外の世界に原因があるように実感してしまうけれど、、、。

「その動揺は、もともと、私の中にぎっしり詰まっているものであって、外を見たことによって発生したものではない」ということを体験として理解できたように感じました。

そうすると、今度は、その「飽和度パンパンに100%のぎっしりの内容」というものをこそ「想念」「心」なのだと、、、つまり「私が一体化している心」=「私=心」なのだと実感を伴って、理解できたように感じます。もっと言えば、動揺自体に私はなりきっている、ということです。

救いは、「動揺自体が私」という状態が変更不可能なものではないということ、それは夢である、ということで、だけど、そのことに気がつかなければ、自我としての私の苦しみからは救われない、、、、。

そうすると今度は「正しい心を選べますように」「正しい心で見るとどのように見えるのか教えて下さい」などと聖霊に声をかけるときの現実味がグンと増したように感じます。

(2021年3月 maru)

maruさんの「その動揺は、もともと、私の中にぎっしり詰まっているもの」という表現が引っかかりました。

私の中の恐れや怒りも、そう言われてみれば、ぎっしり詰まっていました。

むしろ私の肉体の中には、臓器があるのではなく、恐れや怒りがパンパンに詰まっていて、その攻撃の想念が肉体を形作っているように感じられました。

そしてその奥には、冷たくて硬いものがあり、そこから攻撃の想念が滲み出ているのです。

その冷たくて硬いものは、「自我を選ぶという決断」でした。

またそのパンパンの肉体に同一化している私には、赦しができないということにも気付きました。

(2022年2月 by ようすけ)